これまで世界の古典籍の電子化は、画像データ化を意味していた。これは必要なステップだが、それで書物が当時実現してきた読書体験が、今日の人々に共有されるわけではない。それらを活字に翻刻し、注釈を入れ、あるいは現代語訳したものが、やはり別の一面を伝えるものでしかないように。では全体性にアプローチする方法はないものだろうか。紙に拘らなければ、可能ではないか、というのが脱Gの出発点。(左の絵は岩佐又兵衛『小栗判官絵巻』)
E-Bookは仮想読書空間を実現した
書物は一種の再生装置であり、印刷であれ画面表示であれ、パッケージ化されたコンテンツを読みだすことができれば用は足りる。いわゆる「電子書籍」は、無限に表示が切替わるディスプレイで紙を代替するという発想だったと思う。しかし、大量の書籍、文献に目を通す必要がある専門家を除いて、ふつうに読む本を電子で読む必要性と利点を感じている人はそう多くはない。それどころか、電子でしか読めず、たいして安くもないなら、小説など読まなくなる人も少なくないと思われる。しかし、Kindleはたんなる紙の代替ではなく、本に関する情報収集、販売決済、読書支援、コミュニケーションを、ネット上で一貫してサポートする「読書環境」として登場してきた。これが紙の代替ではなく読書環境の代替/拡張であることを、ガラパゴスの“電書”派の人々は想像できなかったのである(黙っていたのかも知れないが、褒められたことではない)。
E-Bookが商業的に読書体験を提供する読書環境を付加価値として成立したことは重要だ。原稿を印刷・製本することで出版ビジネスが誕生したように、コンテンツを仮想読書環境に載せたことで、デジタル出版ビジネスは誕生した。いったんサービスとしての読書環境というものを体験した消費者は、それを切り離すことは困難だ(出版社が切り離すには、最低限DRMを放棄しなければならない)。コンテンツはモノよりもサービスとより強く結びつくようになった。これも“電書”派が考えたくなかったことだ。書物をモノではなく、モノを媒介とした活動とそれによって成立していた社会的空間まで拡張して考えていくと、モノは相対化される。紙であれデバイスであれそれは唯一最高のものではなく、コミュニケーション手段の一つに過ぎないことが分かってくる。人類が希少な紙をいかに巧みに、大切に扱って文化を成熟・継承させてきたかも(今日のように紙を大切にしないのは異常だ)。
Kindleが読書環境を独立した(そして商業的に再生産される)付加価値として構築した意義は言うまでもない。日本でも定着しつつあることは一歩前進だ。しかし、読書空間はパーソナルであると同時にソーシャルな空間として存在する。その大きさと深さ、重さは、もちろん一企業のサービスで支えられる程度のものではない。それは書物が持つ中心的価値としての共時性と通時性を考えれば当然のことだ。われわれはE-Bookによって、千年にも及ぶ歴史を持つこの国の読書環境を、120年余り主役の座にあったG本の分だけではなく、全体として、協調的に機能させたいと考えている。
絵巻物が前提とした声の空間
コンテンツの容器としての書物は、パッケージ化された音源と再生装置のようであるが、同時に音楽における楽器にのようにも機能してきた。というのは、楽譜・楽器が演奏(人)によって音楽を奏でるように、書物は中身が読まれることによってはじめて意味を持つからだ。近代以前には当然のごとく本は音読されており、人々は人が読(詠)む声を通じて読書と出合った。読書は声の空間とともにあった。
近代とともに黙読が一般化したのは、(印刷物の量産よって)読書がパーソナライズし、また速読、多読が奨励されるようになった結果だが、これは読書のみならず読書体験、読書環境を変え、同時に日本語そのものも変えた。普通、進歩として教えられていることだが、黙読という選択肢が増えたのは結構なこととしても、音読の放棄は進歩とはいえまい。とくに会話が貧弱になったことで、文学もすくなからず否定的な影響を受けたと思われる。江戸時代までのほうが、言葉のやりとりはよほど力があり、おもしろい。説教語りや落語家、講談師など、話芸の専門家が活躍したのも、人々が声を通じて、生きた日本語をライブで聴く文化があったからだ。
近代以前の書物を電子的に復元する場合に、まず考えなければならないのは、表現されないながらも重要な役割を果たしていた「声」の問題である。中身を解し、扱い方を知る読(詠)み手も、聞(聴)き手もいない状態では、筆者のような凡夫は読書に参加することが出来ない。音楽というものが楽譜ではなく声や楽器の演奏によって実現されるように、声のない絵巻や黄表紙は、演奏者のいない楽譜・楽器にすぎない。オーラは感じられても体験は得られない。そもそも、絵巻や絵草紙は、遊行僧など暗唱した語り手によって語られたものを源流としている。語りが先行し、書物として流布してからも、人々はやはり語られたものを聞いて読書体験を得たのだ。(写真=『さんせう太夫考―中世の説経語り』 、岩崎武夫著、平凡社ライブラリー)
オリジナル体験によって古典は蘇る
そういうことを知ったのも最近のことだが、『中世の貧民-説教師と廻国芸人』(塩見鮮一郎著、文春新書)は、代表的な「小栗・照手」に沿って中世の芸能の世界を生き生きと描いており、「説教節」のオリジナルを読みかつ聴きたいものだと思った。小栗判官説話のような「死と蘇生の物語」は、無数のバージョンが生まれている。筆者はこの小栗を、猿之助のスーパー歌舞伎で初めて知ったが、熊野の湯の峰温泉の「壺の湯」の看板を見ても思い当らなかったほどの無知だった。
明治くらいまでの日本人は、「さんせう太夫」「しんとく丸」「小栗判官」「かるかや」「愛護の若」といった古浄瑠璃の「世界」に子供のころから親しみ、「約束事」のように共有していた。御涙頂戴とハッピーエンドのストーリーを共有してなぜ感動するかと言えば、共感・浄化や好奇・笑いといったお定まりの、しかし人間と社会にとって水や空気のように必要なものだ。それらは劇的表現や卓越した話芸によって何度でも呼び覚まされる。「道行」などはその最たるもので、地名や風物に語呂合わせや本歌取りなどを巧みに織り交ぜ、七五調で刻みつつ、観光案内をしながら主人公の流離の哀傷の抒情を語る技巧は、オペラティックで圧倒される。現在、道行といえば、歌舞伎や浄瑠璃の駆け落ちシーンで知られるくらいだが、説教節では不可欠であり、観客もそれを要求した。絵巻物はそうした話芸と並行して生まれた。草草紙はそれを聞いたり見たりした人々に読まれた。前掲書の塩見氏が指摘しているように、そうした「泥臭い」ものをスッパリ落とした森 鴎外の『山椒太夫』は、無機的で「近代的」なものになっている。中世・近世に封印をしたようなものだ。
だとすると、そうした古典籍を画像で見たり、活字で読んだりするのは、ベートーヴェンの自筆譜を「鑑賞」したり、オペラや演劇の台本を「読ん」だりするのと同じことではないか。隔靴掻痒。紙と本という書店の展示・販売のために規格化・最適化された形態に固執する必要はない。EPUB3やその基盤にあるHTML5/CSS3/JSを拡張していけば、中世、近世の人々と時代を超えて共感することもできるのではないか。すくなくとも、今日シェークスピアやモンテヴェルディを鑑賞するレベルで。古典は蘇生させる価値がある。まずオリジナルに近い形で。それによって様々な形での再創造も可能となるはずだ。明治以来の「近代」はもはや死につつある。つまり、多くの人に「読みたい」という気を起させない。古典には日本を蘇らせる力があると信じたい。
P.S.:古楽の蘇演と古典籍の電子化
個人的なことだが、クラシック音楽の演奏の歴史に関心を持っている。バロック以前の音楽への関心がヨーロッパの聴衆の間に高まったのは1世紀にも満たない。1980年ごろからオリジナル楽器が普及し、楽譜や楽器、奏法、演奏様式の研究が進んで、聴こえてくる音楽は大きく変わった。復元される以前のチェンバロは、ピアノと同様の鉄骨フレームを使ったモダン・チェンバロで、今日の耳で聴くともの凄い音がした。伊勢物語を草紙ではなく翻刻活字本で読むようなものだと思う。録音技術が未発達だった時代に、大ホールで演奏できるピアノと張り合うために無理な改造をしたのである。
現代楽器のA=440Hzよりも半音低いA=415Hzのピッチ、あるいは「多様なピッチ」が用いられる古楽器の音色は、デジタル録音によって世界中に普及し、違和感なく受け容れられるようになり、それによって古楽だけではなく、ベートーヴェンやブラームスなど一般に親しまれている曲の演奏もかなり変わってきた。これを「進歩」と考える必要もないし、「原典に忠実」が正しいと考える理由もない。しかし、筆者自身は演奏や聴き方の幅が広がったことを喜んでいる。それによって、20世紀前半の「巨匠的スタイル」も、「純正」「正統」「至高」とかいう宣伝文句から自由に楽しめる。「実装」からの独立性が高いバッハの音楽は、チェンバロでもピアノでも同じレベルの(しかし異質の)感動を味わえる。
脱Gによってわれわれは、近代以前にも近代にも、同じように接することができるようになることを期待している。(鎌田博樹、つづく)