前回述べた、脱グーテンベルク(G)研究会の方向性をもう少し敷衍してみたい。和本エコシステムを生成・発展・消滅というライフサイクルで見たことで、エコシステムを成り立たせているもの、時には消滅にも導くものに目を向けることになった。これは紙の大量生産と紙製品としての書物の消費の上に成立してきたG的エコシステムの行方をどう予測し、どう対応すべきかを考えるのに役立つ。(鎌田博樹)
和本を通じてグーテンベルクの銀河の発展的継承を考える
これまで筆者は、出版をエコシステムとして考え、活字・機械印刷・冊子本として特徴づけられるグーテンベルク以後のエコシステムを構想しようとしてきたのだが、和本の世界に触れたことで かなり見方が変わってきた。これまでは本(書物)とその制作、流通に関わる主体を中心に見て、デジタルにおけるその組み替えというほうに目が行っていたのだが、千年あまりの命脈を保った和本エコシステムのライフサイクルをなぞってみて、エコシステムを成立させている環境というものが見えてきた。
イメージを語ってもしょうがないので、図にしてみたのが図1である。エコシステムは、著者と読者、その間のコミュニケーションを媒介する書物という3つの関係によって成立している。この三角形の中に
- 構造と表現
- 著述と創作
- 読書と教育
という3つの小三角形が生まれ、その結果成立するのが出版のエコシステムであると考えられる。出版は必ずしも独立した商業的活動であるとは限らない。むしろ書物を媒介にしたコミュニケーションの中で成立するもので、周辺の環境、たとえばコミュニケーションの手段とコスト、読者の規模と能力といった(技術的、経済的、社会的…)要因によって最適な構成はダイナミックに変化する。この図はかなり汎用性がある。かつては出版のエコシステムを中心に考えていたのだが、それでは繁栄したエコシステムの消滅を説明できない。
結局、本質はコミュニケーションにあり、これを忘れてはいけない。ヒトが言葉とともに生まれたかどうかは分からないが、最も重要なコミュニケーション手段は言葉であると言ってよいだろう。しかし絵は文字に先立って生まれ、むしろ文字の誕生を媒介した。絵文書や絵巻にみられるように、絵と文字は、書物の歴史において等しく重要なものである。活字の圧倒的優位は近代のもので、万古不易などではない。
言葉による豊かなコミュニケーションは、書物や文字のない時代にも存在したが、書物によってその性格は大きく変わった。記憶より記録ということだが、情報を構造的に表現できるようになったことが大きい。車輪を再発明しなくてもよくなったので、言語=知識空間の探求と組み替えが活発化し、書物へのアクセスを独占していた知識層のレベルはどんどん向上していった。読者は著者と身近な知識層、あるいはその候補だった。洋の東西を問わず、「知は力なり」の力は、王権を意味していた。王権の弱い日本でも、主として仏教を通して世界が開かれていた。当たり前のことかもしれないが、どこの国でも、知識層だけをとってみれば、近代的出版の誕生以前の書物は、質的には十分そのニーズに応えるものだったと言えるだろう。
和本アーキタイプの価値
西欧近代は、王権とともにあった知識を「市民」に開放する形で始まった。出版はその手段であるが、何よりも生産性が重視され、15世紀当時の冊子写本のスタイルに似せた、活字、機械印刷、冊子本というスタイルをもとに生産性が追求されていった。これが書物の基本的イメージを規定し、著者も出版社も、この形を「本」と同一視するに至った。Webは、巻子本以来はじめて情報を「ページ」から解放したが、E-Bookにおいても、まだこのスタイルが踏襲されたものが主流なのは、著者による記述や編集者、デザイナーの頭の中にある「本」のイメージのせいだ。彼らはこの共有されたアーキタイプ(祖型)に沿って書き、レイアウトし、制作し、流通させる。このアーキタイプが拡張されないと、デジタルの可能性は生かせないのだ。
橋口和本論から始めることで、私たちは書物のアーキタイプにG以外のもの(すなわち絵巻、草紙、漢籍)が存在し、近代まで使われていたこと、そこでコミュニケーションが活発に行われ、独自の知的価値が再生産されていたことを知った。和本アーキタイプはGの技術では再現不能であり、滅亡に至ったのだが、そこで失われたものを確認することで、脱Gの方向性は(少なくとも1990年前後にハイパーテキストを経験した筆者にとって)かなり鮮明になった。非Gのアーキタイプを再現することなしには、そしてそれらとGとの間の断絶を埋めることなしには、脱Gはにおける出版の再構築には至らないだろう。
これまで脱G研究会はアーキタイプとしての和本から入って、そこで発展した知識空間、コミュニケーション空間を意識することになった。昨日書いたように、2ndレグでは知識のコミュニケーション(書物の機能性)を、3rdレグでは「読者と読書空間」から書物の社会性というテーマに進む。先ほどの図でいえば、これでかつて存在した非Gエコシステムの全体が明らかになり、それによりGとは何だったのか、脱Gとは何でなければならないかが見えてくるはず、という目論見である。(右の図)
脱Gのイメージを、私たちは様々に構想することが出来る。たとえば誰でも「著者」になれるが、「出版」しただけでは著者と見做されないかも知れない。過去の著作・創作が読者にも著者にも開放されているので、独自の価値(著作性)を主張することが逆に難しくなるかもしれない。読者は、他の読者や著者とコミュニケーションしながら関心を形成するのでメディアの役割は低下する。あるいは出版社はメディアにならなければ生き残れない、とか。しかし、テクノロジーは人間が使うためにある。私は脱Gの方向を、コミュニケーションにおける「非Gの復活・再現」と「Gの継承・総合」として考えている。それが歴史的必然性を持っているならば、エコシステムは自ずと形成してくるはずだ。(鎌田博樹)