小林(龍生)さんの困ったところは ―もちろん最大の長所なのだが― 面白いネタと手掛かりを人の前に投げ出し、こちらがとびつくと、すぐまた別のものを目の前にちらつかせるところだ。来月号の入稿が迫っている時に、一刻も待てない別のアイデアを持ってこられる。漫談にはあまりに惜しく、こちらは何か成果をモノにしないといけないと思うから、メモリもCPUもOSも旧式な頭にウィンドウが次々に開いて困惑するほかない。今回はほとほと参った。せめて記憶が鮮明なうちに、「実感と断定」という最も素朴な方法で印象をメモしておきたい。
各テーマ(=ノード)の関連を整理するには、対象がすべて写るようにピントと絞りを調整すると同時に、個々の立体的位置関係を再確定しなければならない。そんなことを本気でやったら10年はかかりそうなので、仮説に仮説を繋ぎ、端切れを接ぎ合わせて大風呂敷をつくり続ける羽目になる。村田(真)さんからは、いい加減、仕様化すべきものを出してもらわないと…、と責められるし、「幹事」として苦しい立場に置かれているのだが、今回はほとほと困った。
大蔵経データベースのおもしろさ
まず、予習をする暇もなく、永﨑研宣さん(人文情報学研究所)による「大正新脩大蔵経の電子化をめぐるスカラリー・エディションの諸問題」という、アカデミックな響きのするテーマに向かうことになった。前回は近藤泰弘先生から「通時コーパスの設計」プロジェクトをめぐるお話をいただき、古典を翻刻・再現する場合に問題となる日本語/表記の問題を議論した。今回もその延長上で考えていたのだが、さすがに相手が日本の古典ではなく、2000年以上の歴史を持つ世界宗教ともなると、グローバルな方法論、技法、環境が問題となる。筆者には未知の領域だが、これは興奮するほど面白そうだ。それに「脱G」には不可欠な要素でもある。
大蔵経とはいわゆる「一切経」と同じく、仏教におけるすべての経典を意味する。1000頁×85 (+別巻15)巻、約1億字にもなる巨大な仏典集成で、四庫全書(約36000冊、230万ページ、10億字)に次ぐ規模。日本では明治期の「大日本校訂大蔵経」(縮刷大蔵経、東京弘教書院、1885)に続き、大正-昭和にかけて、民間人による一大事業として完成したのが「大正新脩大蔵経」(大正一切経刊行会)である。国際的なリファレンスブックに指定されているので、各国の学術図書館に常備されている。史上初の洋装本ということで可用性が高まり、言語や版本による異同など、国際的な比較研究に寄与した意味は計り知れない。テキストクリティークなどは出版によって前進するもので、高楠 順次郎博士の世界的な偉業は讃えられる。(写真は韓国・伽倻山海印寺・大蔵経経板閣の内部)
さて、こうした人類的な知の遺産はいま電子化が進んでいる。電子化には画像化とテキストデータベース化(電子的翻刻)2つのアプローチがあり、どちらも価値があるが、活字出版的な意味からは後者がより重要だ。読書につながるからである。すべて高麗八萬大蔵経を底本とする大藏經のテキスト化は、日本の大藏經テキストデータベース研究会(SAT)と、台湾・中華電子佛典協會(CBETA)、高麗大蔵経研究所でそれぞれ行われている。韓国のプロジェクトは民族的・歴史的意義を強調しており、これがなかなかに容易ならざるものであることを物語っている(例えばKoreana記事参照)。古典の集成は古来、王朝や民族の文化的・道徳的正統性を示すプロジェクトだった。台湾、韓国の熱中は、その系譜を継承しており、デジタルになって再燃した観がある。中国の“参戦”も疑いの余地はない。こうした競争は結構なことだ。もしほんとうに読まれることにつながるのならば。
スカラリー・エディションからパブリック・エディションへ
古典の翻刻には、収録範囲、底本、校勘、異体字の処理方針など様々な編集上の問題があり、だからこそ「スカラリー・エディション」が問題となる(なぜ校訂版と言わないかというと、価値的に中立で相互比較可能であることを意味しているという)。さて、テキスト化には原典の符号化、構造の表現などが絡む。電子化とは標準化を意味するほどで、標準がないと賽の河原状態になってしまう。前者はUNICODEの守備範囲だが、後者はどうだろう。
1960年代からマークアップの山が築かれた後で、1980年代にText Encoding Initiative (TEI)が生まれ、公的補助を受けてメタデータのルールセット(ガイドライン)がつくられてきた。これはXMLで記述されており、エディター(TEIドキュメントの生成)のほか、HTMLや LaTeX、XSL:FOなどへの変換ツールやスタイルシートも出来て使われている由。TEIのサイトを見たら、国際化(i18n)もしっかり取り組まれており、ドキュメントおよび要素と属性名の翻訳は5つの言語(仏西独中日)で作業中。これがあればEPUBとのリンクも可能で、たとえば『聖書』や「般若心経」からプラトンの『国家』、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』等々の古典のアカデミックな研究の動向に一般読者が触れ、議論に参加することもできる。
さて、これだけのことをやって、あるいは何の意味があるのか。何がうれしいのか、と思う方も多いだろう。それは「読書」行為の通時的・共時的な拡張にある。TEIのミーティングにも参加されている永崎さんが、電子的なスカラリー・エディション(以下ESE)のイニシアティブが欧米において人文学復興の意図から推進されていると指摘された時、筆者は驚くと同時に頭の中で何かが弾け、少しばかり腑に落ちる感じがした。Public Humanitiesとか、Digital Humanities、それらを合わせたPublic Digital Humanitiesというコンセプトも出来ていたらしい。知らなかった。すごい! (続く)
public digital humanities