Humanities(人文学)は、古典古代からの伝統ある学問分野なのだが、科学主義の波に乗って社会科学が「分離独立」して以降、生彩を失って久しい。社会に次いで人間まで「科学」として分離されてしまっては、文献以外に頼りとするものがなくなり、読者も減って、かつての諸学の王たちも見る影もなくなった。電子人文学 (Digital Humanities)はその限界を打ち破り、さらに公共電子人文学とすることで社会性を獲得することを目指すという。ではそれは本や出版とどんな関係にあるのだろうか。
人文学の凋落と知の迷路
人文科学とも訳される人文学は、本来は人間とその行為および社会を対象とする学問全般を指すが、今日では、主として文献に依拠する哲学、神学、宗教学、倫理学、文学、美学などに対して用いられている。人文学は本と関係が深い。西欧では古典、中国では経書があり、まず読むべきものとされてきた。そればかりではなく、本の発展とともにあった。古典の注釈によってテクストの「読み」を構造的に進化させていったからだ。ルネッサンス期の人文主義者エラスムスは、ヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウスに協力して、ギリシャ・ローマの古典を数多く出版し、大きな影響を与えたが、アルドゥスが開発したフォントや携帯サイズの判型、ノンブルは、今日まで続いた“グーテンベルク本”の元祖だ。人文学は18世紀啓蒙思想をリードした。百科全書は出版の歴史の最も輝かしい1ページだ。本と出版が知的権威を持つのは人文学のオーラを背負っている。
しかし、いまは見る影もない。とくに哲学教育の伝統のない日本では、就職の役に立たず、たんなる教養の世界と見做されている。知を愛する(philo-sophia)ことがリーダーの条件とされなくなったので、18世紀後半から20世紀前半まで2世紀あまり続いた読書熱も完全に冷え固まった。欧米の若い人文系研究者からは、「日本人は本を読まず絵で用を足そうとする国民だと思われている」と永崎さんが言われていたが、大学生の過半数が本を読まず、勉強もしない(ことを何とも思わない)ところを見れば現実として受け入れざるを得ないだろう。識字率の高さというのは見せかけに過ぎないことは、すでにバレている。とはいえ、そもそも本を読まなくなった日本を除外して考えても、人文学の地位の低下は顕著だ。少なくともエリート以外には何で必要なのかが分からなくなっているからだ。
人間=社会の学(中心は哲学)から社会を切り離して社会科学とし、さらにその諸側面を経済学、政治学、地理学、法学などと分担して観察・分析を可能としたことで、確かに個々には「科学的」になったが、経済学をはじめとして、政治(権力行使をめぐる利害調整)に使われる存在で、真理とは遠く社会性はさらに薄い。社会科学は社会に関する「ビュー」を与えても、ますます全体性からは遠ざかる。目的と手段の関係、効果と副作用のバランスシートなどを説明できない。これは何も社会科学に限ったことではない。われわれは最近になって「原子力工学」なるものが存在しないことを知った。
無数に細分化した「…学」は、無数のビューとそこから得られた知見や方法を与えるが、それらを総合して全体を理解するには足りず、それらを社会や人間に役立てることは出来ない。座標軸を示す人文学という全体性が欠けているからだ。個別の必要を満たす技術的手段の進化につながるだけである。人々は何が問題であるか、何が「正しい」かを考える方法を知らず、したがって議論もできない。価値中立的な「科学」ばかりを無数につくってきたせいで、価値(たとえば正義とか平和とか繁栄とか人権…)の問題を“社会”的に議論する方法すら知らないのだ。日中関係をどうするかから、モバイル・システムのデザインをどうするかまで、具体的な(つまり、生きた人間と社会が関係する)問題には役に立たないのだ。欧米では「人文系離れ」どころか「理工系離れ」が問題になっている。学生は使い捨てされることを恐れるからだ。(→次ページに続く)