JEPAの主催した電子出版セミナー「EPUB25セルフパブリッシング狂時代」には残念ながら参加できなかったが、「セルフ」についての関心が高まっていることは感じ取れた。しかしいまだ訳語に躊躇している様子が気になる。カナ文字を使うのは、日本語に存在しない異質な概念として扱っているかのようだ。異質か否か?ここではあまり語られていない側面から述べてみたい。これは、出版の原点を確認しつつ再定義するシステムでありサービスなのだ。
「ふつう」の出版とどこで区別するのか、あるいは「ふつう」とは何か
システム屋の友人がこぼしていたが、「定義」を問題にすると「そんなアカデミックな話を」と煙たがられるという。言葉で記述された要求を仕様化し、設計・実装するのがシステム開発なので、定義が曖昧なら、まともなシステムは出来ない。定義嫌いは設計嫌い(≒実装好き)に通ずる。すべて定義の上に構築されているシステムを扱う業界でさえ、定義を言えば嫌われる。筆者が知る限り、これは日本だけの特異な現象であり、日本がITの世界で後退を続ける原因だ。いまさら「論理的思考」を重視するのも悪くないが、議論の楽しさとルールを身につけるグループ学習が先だと思う。
定義は「コミュニケーションを円滑に行うために、言葉の意味や用法を明示する」ことのはずだが、日本では人間関係の円滑を損なうこともある(いやそちらのほうが多いとさえ思う)。筆者も子供時代から「理屈屋」と呼ばれて嫌われ、注意されたりして悩んだが、集団としての日本人は、定義(論理)より「空気」を気にする。聞き慣れないカタカナを使うのは、とりあえず括弧で括りたい異質さ、新奇さを感じるからだと考えている。取注のカタカナ語や略語なら、ブームとして盛り上げたあとで、「流行語大賞」とともにゴミ箱に捨ててもいい。
他方、定義やそれを前提とした訳語を決めて受け容れてしまえば、実現不能であることが分かった時に、集団内外で問題の原因になるので、それを避けたい心情だ。あらかじめ定義を曖昧にしておけば、採用するにも捨てるにも責任が生じない。コトバのせいにすればいい。まことに日本的(?)。しかし、これでは大きなシステム(組織もその一つ)はまず動かない。動いているとすれば、すべてを吸収する、濃厚な人間関係のネットワークと、自明性 (of course assumption) を共有できる環境的な強制で動くということだと思う。
欧米や大陸アジアではそうはいかない。「自明」より定義に基づく「説明と命令」でないと、システムは拡大再生産されない。古代から、王は文字、暦法、度量衡から音律に至るまでの標準化を主宰したが、これこそが権力の源泉だったからだ。孔子は、衛君が先生に政治を任せたならまず何をなさいますか、という弟子の子路の質問に「必ずや名を正さんか」と言って呆れられている(論語・子路13-3)。名とは意味であり、意味が通じる範囲でしかまともな政治は出来ず、名を一貫させないと社会は成り立たないということだと理解しているが、状況によって勝手に意味を捩じ曲げたいのが人間だから、これはいつの時代も難しい。
さて「セルフ・パブリッシング」はなぜ出版ではないのか。英語の publish/publishing という言葉には主体や目的、方法、対象についての限定は一切ない。主体が個人であれ政府であれ企業であれ、目的が広報であれ金銭であれ、方法が活版であれDTPであれ、文書を公刊する行為と理解されているから、それに限定をつけて意味をさらに特定する。主体については、企業や政府機関がやるのは corporate publishing、出版を生業とする企業の場合は commercial publishing、学術機関のは academic publishing という具合。こられは発行主体による分類として使われている。
セルフ・パブリッシングは出版者を顧客とするWebサービスである
self publishing は出版の主体を限定している。セルフサービスを連想するが、抽象化された「個」でもある。個人の出版だから、方法的にはDIY的な色彩を持つ。しかし本当のところ、方法は重要ではあるが本質ではない。というのは、この言葉はもともと想定顧客と、そのニーズを支援するシステム・ソリューションとともに生まれたものだからだ。出版業界の関係者にとっては新奇な方法かもしれないが、出版のための生産・流通手段へのアクセスを持たないすべての個人あるいは組織が待ち望んでいた合理的なものだ。これは open publishing と呼ぶべき、21世紀最初の、巨大で破壊的(disruptive)なイノベーションの一部なのだ。
だから「書いて、作って、売るという3つプロセスを一人でやること」と理解することも可能だが、むしろ「出版に関わる一部(またはすべて)の工程をWebベースでやること」としたほうがいい。現在のところ、ユーザーはもっぱら(出版のための十分な資金 and/or 技能 and/or 設備を持たない)著者だというだけの話だ。そうした点で、self publishing は、1980-90年代の電子出版であった DTPの延長上にある。DTPは当初、プロ用とは見做されなかったが、その後プロが当たり前に使うようになった。そしてDTPという言葉もあまり使われなくなった。デジカメも死語となりつつあるように。
self publishingと同じ環境を、基本的にプロも使うようになるだろう。一部(またはすべて)の工程をWebベースに移行することが当然となるということだ。昨日までの常識では、「書いて、作って、売る」ことを一人でやるのは非現実的だった。現在もそうだ。著者兼編集者である筆者は、過去40年あまりの様々な出版物の、様々な制作現場について、ひと通りの見聞あるいは経験を持っているが、Webベースの出版がDTPと違うのは、たんに本づくりだけでなく、文字通り出版の全プロセスをオンラインで管理し、サポートを利用できること、その際に外部のサービス(プロフェッショナル・サービスから自動処理まで)を同じ環境で、かつ安価で使えることである。(→次ページに続く)