「グーテンベルク以前の書物のための仮想読書環境の構築」という筆者のアイデアが、今年のフランクフルト・ブックフェアの Digital Publishing Creative Idea Contestで表彰された(→リリース)。本サイトでも取り上げてきた「和本プロジェクト」(Project Beyond G3)の最初の対外的成果である。発表内容について連載でご紹介してみたい。(鎌田博樹)
出版の「未来」をどう考えるか
本/出版の未来については、様々に語られ、考えられている。しかし、筆者からみて物足りないことは、それらが過去に考えられてきた範囲内にとどまり、いわば「昨日誰かが考えた未来」で、視野もかなり狭いと思われることだ。多くはすでに実現されてしまっていおり、アマゾンが最強のビジネスモデルとともに、毎週のように更新していることでもある。これはいまのところ期待以上。
そうした「未来」に期待できないのは、ビジネス以外の部分だ。出版はビジネスとイコールではない。ビジネスが出版の一面でしかないことを忘れれば、出版は現在の金儲け(直近の市場ニーズ)の範囲内に限定され、様々な社会的・文化的役割とともに、ビジネスの「未来」も限定されてしまうだろう。日本は19世紀の前半まで、木版を土台とした和本による、華麗で豊かな出版文化を有していた。筆者がこの世界に蒙を啓かれたのは比較的最近のことだが、筆者が考えた「未来」のいくつかが、江戸時代に実現されていたことに驚いた。とくに出版の社会性(コミュニケーション機能)を反映する部分である。
木版エコシステムとして存在した江戸の出版文化は、ほぼ明治20年を節目に、グーテンベルクを濫觴とする「西欧近代」の産業インフラによって駆逐され、現在は、書画・骨董とともに扱われることの多い和本が遺されているのみ。活字に翻刻され、「古典」になったものはほんの一部で、ほとんどは一般人の手の届くところにない。それによって、古典は点として存在するのみ。物語の伝統は途絶え、あるいはマンガという変格で受け継がれた。わずか二世紀ほど前の日本人の知識空間は、霞の彼方であるが、落語・講談の活字化から商売を始めた人々は、この文化遺産と近代の歪みに無頓着できた。
明治グーテンベルク革命は“破壊的”イノベーションだった
同じ問題意識を持つ人々との交流によって筆者が考えたことは、「未来」は過去の中にもあり、むしろ、まず確実に価値ある書物(コンテンツ)が豊富に存在する過去の中に、その復興として求めるべきではないか、ということだった。遅れてきたグーテンベルク革命が江戸の出版に与えた破壊的影響は、デジタル技術が現在の出版に与えている(であろう)影響の比ではない。デジタルのほうは、アナログの遺産をひたすら再利用することを前提としているが、木版と和紙と墨を使った手仕事を、活字と洋紙とインクを使った機械の駆動に置き換えた近代印刷は、日本語と言語文化まで一変させてしまった(正確には「日本語」「日本文化」を誕生させたというべきか)。木版と金属活字を、同じ紙出版として同列に論じることはできない。
アジアは、プレ・グーテンベルク出版を通じて古典的知識世界を共有していた。言うまでもないが、日本の「伝統」はこうした古典と離れて存在しない。また知識世界の共有なくしてアジアに相互理解と尊重の精神を育てることは想像できない。しかし、東洋と西洋の間に独自の地位を欲した明治の出版人たちの意思に反し、近代日本は欧米にスイッチし、欧米を通してアジアを見るようになった。敗戦以降は、東洋的教養の伝統が衰退し、過去の遺産も散逸したことで、ほとんど断絶状態と言っても過言ではない。1990年代以降のアジアの復活(と日本の没落)によって、この「ねじれ」は孤立感と緊張感を生み、危険なレベルに達している。歴史的に共有してきた文化的遺産にアクセスする手段が乏しいため、交流は細くなり、正常化のきっかけも掴めない。
グーテンベルク出版は、千年の歴史が育んだ和本とその文化を駆逐しただけでなく、アジアとの紐帯も限りなく細いものにしたのである。いま中国、台湾で漢籍電子化が進められ、韓国が「高麗大蔵経」の電子化に力を入れているのは、古典籍をソフトパワーのインフラとして再構築するためである。紙からも活字からも自由になったわれわれが、まずなすべきことは、失われた価値を見直すことではないだろうか。
プレ・グーテンベルクの遺産を通じて「未来」へ「世界」へ
日本の過去はアジアを通じて、グーテンベルク以前の世界の書物文化と密接に結びついている。そうした意味でも、日本(の過去)に、時空を超えた知識・文化のコミュニケーションとしての未来の出版のモデルを求めることは十分に可能である。江戸出版文化の価値を復興する手段が見つかったならば、それは世界的な普遍性を持った未来のモデルになり得るだろう。Project Beyond G3は、こうしたコンセプトで1年前に生まれたのだが、それを世界に拡散するのは別のチャレンジである。
フランクフルト・ブックフェアが、フランクフルト大学のゲーテ・ユニベーター(インキュベーション機関)と共同で、今年初めて Digital Publishing Creative Idea Contest (DPCIC) を開催すると聞いたのは6月のことだった。折角の機会なので、締切の8月15日間際になって慌ただしくまとめて提出した。筆者がPG3のコンセプトをそのままアイデアとして提案してみようと考えたのは、これが海外でどう評価されるかを知りたかったからである。はからずも、数ヵ国、数十件の応募の中から選ばれた3点の中に入り、ブックフェアの会場で表彰を受ける栄に浴したのは、まさに望外のことだ。賞金などはないが、PG3の活動がフランクフルトで認められたことは、大きな弾みになるものと期待できる。
ビジネスとどうつながるか、と聞かれそうだが、非グーテンベルク本を読むことの価値が認められ、それに関するコミュニケーションが世界的に広がれば、読者とニーズが生まれ、ニーズが生まれればビジネスともなるだろう。それは多くの出版物と同じことだ。出版の本質は価値を発見し共有する活動にあるからである。
以下、フランクフルト・ブックフェアの会場で10月10日に発表、表彰された受賞提案「グーテンベルク以前の書物のための仮想読書環境の構築 (Creating A Virtual Reading Environment for pre-Gutenberg Books) ― Project Beyond G3」を当日の資料をもとに解説していきたい。(つづく)