社会はコミュニケーションで成立している。手段がデジタルとなってもそのことは変わらない。しかし出版あるいはメディアビジネスの形は一変する。デジタルには記録・伝送・表示以外のことができるからだ。変化を促す力と変化に抗する力のバランスは、日本においても確実に変わろうとしている。好悪の問題ではなく、後者からはビジネスの機会が失われつつあるからだ。【連載第1回】
紙からデジタルへの移行の意味
筆者の編集センスから言って、「××の危機」というタイトルはリスクが大きい。常識的には夕刊紙の見出しであり、竜頭蛇尾か我田引水の駄文を意味するからだ。常識を覆し、読者の納得をいただくには、危機の根源と実相についての新しくまた明快な説明、そして進む(べき)方向性を示すことが最低限の責任であろう。とくにメディアの危機は、今日ほぼ誰もが実感はしていることだ。しかし公然と議論されることが少ないのは、もちろん、このテーマに関してはメディアが機能しないためだが、デジタルという得体のしれないテクノロジーのせいでもある。
筆者は2008年からデジタル出版の動きをフォローしているが、デジタルについては30年来の付き合いなので、理解はしているつもりでも、どうにもうまく説明しがたいもどかしさを感じていた。見えてきたのは、2012年に橋口侯之介さんの知遇を得て「和本」の世界とそのエコシステムの崩壊の歴史を垣間見る機会を得、その流れで「Beyond G3」研究会を重ね、とどめにローター・ミュラーの『メディアとしての紙の文化史』(三谷武司訳、東洋書林、2013)を読んで以降のことだ。この本は、これまで知ることの少なかった紙の歴史の重さを教えてくれた。
その結果確信したのは、印刷からスクリーンへ移行の背後で進行している、紙から(束の間の)投射物への媒体の移行(文明開闢以来の巨大な変化)が、わずか数世代の間に世界的に進んだという事実である。いま起きていることは、印刷がどうのというレベルの話ではなく、紙幣や公私の文書までひっくるめた、紙と紙の上に記録されたものをベースとしたコミュニケーション(文明)が、そっくり「デジタル」に移行してきた過程の最終段階にさしかかっている中で起きている事態であり、これまで紙を通じて「世界」を知り、最もよく世界とつながっていると信じてきた人々が経験する初めての、終末的な状況だということだ。
なぜ一つの終末なのか。それはデジタルが(出版関係者が期待したような)たんなる記録・伝送・表示の手段ではないからだ。それは数値化であり、数値化可能なあらゆるものを(その範囲で)仮想化する。人間だけが情報を読み取り、判断ができた時代は遠い過去となりつつある。IT(ロボットと考えてもよい)が読み取り、プログラムされたとおりのサービスを提供するようになった。それによってプロセスがデジタル化される。その範囲はプロセス間のオープンな相互連携を可能にしたインターネットによって飛躍的に拡大し、サプライチェーン全体をデジタルにコントロールする。アマゾンがやってきたことであり、いまやすべての企業が対応を迫られている現実だ。
いまや「プロセス」とそれを支える「サービス」は、インターネット上で自由にデザインし、実験・実証し、グローバルに展開することができる。必要なコンピュータさえも購入せず、「サービス」として契約し、利用することができる。つまり、これは「組織」を前提としない。アマゾンはモノや組織ではなく。顧客(価値)から出発して柔軟で効率的なビジネスモデルを構築した。既存の大組織は、かつて巨大な成功をもたらした旧いプロセスと一体化しているために、サービスには目を向けず、プロセスも組織も変えられず、リストラで意欲と体力を落としている。「失われた20年」である。
テクノロジーは敵にはできない
この文明史的変化の結果「相対的過剰人口」に回されるに至った当事者には、農民でも職人でもない、文字や情報を扱う仕事に従事している(産業革命によって人口構成の相当分を占めるまでに増加した)人々が含まれている。動物の骨や皮、木や竹、粘土板から始まり、紙という理想的な物理的媒体を得て、それをメディアとして機能させるために従事してきた膨大な数の人々が、つねに文明や権力、宗教、科学、文化などとともにあった人々の系譜に属する誇り高い人々とともに、失業の危機にさらされているのだ。そうした事態は、グーテンベルク革命の際にも起きたことだが、今回のほうが影響範囲ははるかに大きいように思われる。
デジタルに目を閉ざせば先はないことを知りながら、あえて拱手傍観している状態だが、少なくともメディアビジネスに関する限り、「失われた30年」はないだろう。売上規模が1兆円を切るのが見えた段階で旧来のビジネスモデルの急速な瓦解と解体が始まるからだ。広告がデジタルに移行して出版から離れ、出版はメディア産業としての骨格を失ってニッチな存在となり、他の様々なビジネスやサービスに吸収されていくだろう。そして新しい、かなりいびつな形の、デジタル主導のメディア・ビジネスが出来上がりそうだ。和本のエコシステムが消滅に向かった「明治20年」的な瓦解へのカウントダウンは、すでに始まっている。何が起こるかは、不連続な変化が起きた明治の出版史が多くのことを教えてくれる。
出版がどういう形をとるにせよ。それはデジタルの中にしかない。より経済的であるばかりか、出版に期待される機能(読まれること、話題になること、何かにつながること)を確実に果たしてくれる可能性が高いからだ。紙はしだいに高価で採算性が不確実な、例外的(つまり高級)なものとなるだろう。商業出版においては、結果的に販売で採算がとれなくても、という発想は許されなくなるだろう。善いことでも悪いことでもあるが、いつの時代もそれが現実だ。
アメリカの技術史家メルヴィン・クランツバーグは「テクノロジーの法則」の一つとして「テクノロジーは善いものでも悪いものでもないが中立でもない。」と述べている。われわれにできることは、それを(完全な味方にはできないとしても)最悪の敵としないことくらいだ。機械式印刷は高度な職人技に支えられた和本のエコシステムを壊滅させた。デジタルを無視した企業は多くの人を失うだろうが、人はやがてメディアにおけるデジタルの使い方を習得するだろう。それに機械の時代と違ってデジタルの時代は巨額な設備や資金を持たない人には向いている。旧メディアの終末の後に、地獄図を思い浮かべる必要はないし、ユートピアを描くこともできない。いまは、文化的な断絶を最小限に止め、創造性を最大にする現実的な移行戦略をデザインする時である。
本連載では、ほぼ以下のように展開していく予定である。ご質問、ご意見、ご批判を期待している。(鎌田、2014-01-07)
1. 知識コミュニケーションと出版
- コンテンツとコンテクスト
- デジタルでメディアの何を変えたのか
2. デジタル情報空間の分離とメディアの危機
- コンテクスト指向メディアの成立と発展
- メディア危機の7つの本質
3. デジタル時代のメディア再構築
- 出版とメディアの価値
- メディアとビジネス
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