設備産業としての20世紀型(=マス)メディアの優位が終わったことは、本質的にマスとしては中途半端な出版にとって、積年のコンプレックスを払拭する機会を与えている。この機会を利用するためには、マスメディアの最後尾ではなく、Webメディアの最先端に鞍替えする必要がある。そんなに難しいことではない。もともと設備は持っていないのだから。(鎌田)
You Are What You Read
前回の話のポイントは、21世紀のメディアのパラダイムが「設備から知識へ」と変化した、ということだった。この場合の知識とは、たんなる情報ではなくフランシス・ベーコン流の(因果性を帰納する方法を)「知ること」である(本誌拙稿「メディアの危機ー(3)デジタル情報空間の分離」参照)。「本と読者との関係」「誰が何をどう読むか」についての情報と言ってもいい。それには、なぜ関心を持ち、どうやって知り、どこで購入し、どう読んだのかということまで含まれる。「本」が問題となるのは、それが情報・知識の構成体だからであり、実際にはどうあれ、少なくともユニークであることが前提とされているからである。
‘You Are What You Read.’ という言葉をご存知だろうか。「読むもので 人格が作られる」とか「読むもので人格が分かる」とか年長者に口やかましく言われ「良書」を読むようプレッシャーを受けた人も多いだろう。近年、日本では読書基準に関してはおそろしく甘くなってきたので、詮索されることも少ない。上記の格言も、’Read’ よりは ‘Eat’ や ‘Buy’ への置き換えのほうが知られているかも知れない。しかし、読書に対する態度がどうあろうと、この言葉は真理だし、とくに「読むもの」を書籍以外のWebなどにも広げるならば完全に妥当する。
この場合の「人格」は後天的なもので、言語文化や科学などに対するリテラシーや免疫性はもとより「世界・社会」観の枠組を形成する。人間の判断や行動には「読むもの」が関与している。 ‘Eat’ や ‘Buy’にしても、読んだものは一定の影響を与えるし、金額の高くなるほどその度合いも高いだろう。社会的コンテクストが複雑化すれば「読むもの」の比重は多くなるのだ。もちろん、影響力の大きな情報源は「読むもの」だけではない。視るもの、聴くものもある。しかし、文字は他の認知手段に比べて格段にトレースしやすい (traceable)上に、すべてのコンテクストを集約することが出来る。
20世紀という時代、数(マス)が力だった
知識のメディアである文字/本の力は20世紀を通じて衰退していった。20世紀後半のメディアは、「読むもの」に対して「視るもの」「聴くもの」の価値を最大化した。短時間で人の情動に直接的に訴求し、しかもインパクトは分散的ではなく集約的、つまり「マス」効果がある。上書きも反復も容易で、きわめて操作しやすい。単純な「現実」をつくりだすことができる。言うまでもなく、これがスポンサー(権力と大企業)の支持を得て映像が活字を圧倒した理由だ。
活字の力は複雑なコンテクストを。粗雑な単純化を避けつつ、構造的に整理するところで発揮されるのだが、インパクトが弱く、しかも操作がしにくい。複雑なコンテクストを扱える強味とトレーサビリティは、それを共有したいニーズがあるオープンな社会でのみ意味を持つ。20世紀国家が、体制の如何を問わずテレビを優先し、活字系を補助的な位置に置いているのは、マスメディアとしてのスピードとパワーだけではない。
一般的に、読ませたいものを多数に押しつけられるだけのカネと権力を持つ者は、複雑なコンテクストは他者と共有したがらないし、トレーサビリティは他人には行使されたくない。理解する人間は多くないし、自分の見方とは限らないからである。文字は本質的に統制が難しい、不都合の多いメディアなのである。知識人の力が弱い日本では、メインストリームから「敬して遠ざける」扱いを受けることで、しだいにディレッタントやオタクのためのものとなっていった。刷部数で3,000、多くても数十万という単位では、影響力など望むべくもないと考えられているからだ。数は力であった。その「非対称性」の20世紀が、インターネット(Web)によって終わったのだ。
インターネットで何が変わったかを簡単に要約することは困難だが、伝送媒体(紙、放送設備、通信設備…)の相対価値が急激に低下したことを挙げないわけにはいかない。20世紀が極端な「メディアの世紀」となったのは、コンテンツとメディアとのアンバランスのためだった。伝送手段が希少で高価であり、その経済性に奉仕するための効率性が重視された。つまり、大量複製、同時配給だ。出版社は「ベストセラー」を目ざしたので、情報は大量にはなっても、多様化はしない。マスメディア時代に『氾濫」した出版物の多様性とは、「マス」を目ざして外れたものか、ニッチを型通りに埋めているものが大半と言っていい。あたかもコンテンツの価値を最大化しているように見えるが、最大化されるのはメディアの現在価値であってコンテンツは消費財としての価値しかない(売れなければ消される)。その証拠に、出版されたタイトルのほとんどは著作権保護期間(50~75年!)の間、市場から消えている。この異常な大量廃棄時代の経済合理性を当たり前のことと考えるべきではない。すでにそうではなくなったのだから。 →次回に続く (鎌田、05/12/2014)