出版社にとって「版」は打ち出の小槌であり、それがプロダクトとしての本を生み出していた。しかし、いま版は確かな実体を失い、コンテンツもあまりに頼りない。多様な価値を読み取り、コントロールすることで出版の姿を変えている「サービス」は、しかし出版の中心主体にはなり得ないだろう。では、21世紀に本をつくりだす力は何なのだろうか。
活字=版の希少性の終焉
誰もが版を持てる時代、出版とは、本とは何だろうか。近世以降の出版は、複製物としての本を生み出す「版」をめぐるビジネスだった。グーテンベルクが可動活字を使った印刷術を完成させ、本づくりを工業化して以来、商品としての印刷物が知識・技術・情報の社会的共有の基盤とされるに至った。出版の価値は版の希少性にあり、版権によって保証されることで、複製されるほどに富や知的権威を生み出した。考えてみればとても危ういものだったが、社会の印刷信仰はそれを疑わないようにしていた。
版の制作・流通の主体である出版社の栄光は20世紀で終わった。金属やフィルムなどの物理的実体を失い、数量化されたことで、版は希少性とともに象徴的意味も失う。最終的に記憶媒体が限りなく安価になることで出版は希少性という支えを失い、漂流を始める。奇しくも身の回りから「現金」が消えるおカネの「デジタル化」と並行している。紙の本もお札も人の好むものだが、それでも減っていくのは止められない。
何でも「版」になり、誰でも「出版者」になることで、版権はそれ自体では版の価値である希少性、唯一性を保証しなくなった。もともと業界にとっては商業的に成功した版のみが希少であり、版権は特定少数のタイトル以外の流通を困難にする役割を果たしてきたのだが、出版社は過去に清算した無数の版を絶版によって管理することが困難になった。Google Booksに出版業界が恐怖したのは、葬ったはずの過去の膨大な版がデジタルによって蘇り、新刊市場に祟ることを怖れたためだろう。
もちろん、希少でなくなったのは新刊も同じだ。米国ではISBNを持たないE-Bookが(書店から見ると)正規の出版物を上回るに至り、ベストセラーまで生まれている。デジタルファーストの出版物に、ISBNは現実的に不要だからだ。出版社が刊行したものが本である、というかつての常識は急速に薄れた。それとともに、版の希少性とともにあった本の意味=価値について考え直す必要も切実なものとなっている。
サービス主導による出版の変質
デジタルの主役は「コンテンツ」と言われたが、それが幻想であることは、デジタルデバイスの普及によってすぐに明らかになった。コンテンツが王様気分に浸れたのは、版の希少性の幻想の余韻が残った間だけ。王国あっての王様で、王様でいられるのはディズニーの魔法の王国などに限られる。そして王国の構築と維持は「サービス」に依存する。ビジネスにおいて、プロダクトより、コンテンツの商業的成否を握るサービスが注目されるようになったのは当然だろう。それは出版ビジネスにおける版からプラットフォームへの重心の移行に対応している。出版における力はサービスに依存し、コンテンツもサービス化する。
アマゾンのようなサービスプラットフォームは、ほとんど全能であるように見える。数千万のユーザーのプロフィールに合った本を毎日推薦することもできれば、無数の自主出版の中からヒットを出すこともできるし、出版社となってコンテンツを制作することもできる。そもそもサービスはコンテンツに関わるユーザーの「コンテクスト」のデータを使って行われる。「知は力なり」とは、まさにマーケティング・インテリジェンスの時代にあるかのようだ。
個々のコンテンツは著者と出版社の間で生まれるが、プラットフォームは無数のコンテンツと消費者/読者の間にマーケティング・エンジンを置いて精度を高めていく。前者はプロダクション、後者はディストリビューションだが、前者はデジタルで弱まり、後者はデジタルで飛躍的に強まった。はじめて読者が視野に入ってきたからだ。コンテンツは購入されない限り商品として実現されない、という意味では、後者の力は、大出版社においても強まらざるを得ない。大出版社はそこそこ儲かるビジネス(利益率5%+)から、かなり儲かるビジネス(同15%+)として期待されている。
コンテンツがサービスに依存することによって、コンテンツはプロダクトから解き放たれてサービス化する。善くも悪くもそうだ。それはコンテンツの可能性を拡大する版面、完結したプロダクトとしての価値を相対化あるいは毀損するだろう。かつてのような「決定版」は生まれなくなるかもしれない。 それ以上に根本的な問題は、サービスはリアクションでありフォローアップであることだ。 つづく ◆ (鎌田、05/19/2015)
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