道具が芸術・表現に影響を与えることはよく知られている。メディアはさらに「コンテンツ」の価値を変える。創作・表現ばかりではない。Webは多くのモノやコトをコンテンツに変えた。サッカーが世界的な巨大ビジネスとなったのも、そしてどこにでもいる猫が近しいコンテンツとなったのもWebのUXのせいだ。この現象は考えてみる価値があると思う。
犬の時代から猫の時代へ
猫は犬とともに昔から人間の友人ともペットともされていたが、日本の伝統文化は犬を家や家族の一員として別格に扱ってきた。渋谷の「ハチ公」前で待ち合せするのも、ブリュッセルに「フランダースの犬」を見に行くのも、「待つ犬」への親愛の情を人と共有したいからだろう。ちなみに待つ犬に「共感」するのは、日本人特有のミームと考えられている。逆に日本人は「個性的で身勝手」な猫への感情を他人とは共有しなかった。「忠」が欠けているから、と言われている。いまその日本でも猫は犬を圧倒している。理由は、人間「社会」の変化以外ではない。家や家族が重すぎ、「終身雇用なんてもう守れない」とカイシャ世界のリーダーから言われる時代に、善意の散歩を要求する犬のUXは「重すぎ」る。
WebをUXセンサとした「カメラ付携帯電話」を発明したのは、天才数学者(あるいは1990年代を代表した起業家の一人)のフィリップ・カーンだ。見るからに猫猫しい、大男のフランス人として筆者の記憶にもある。彼は1997年に初めての愛娘の誕生に病院で立会い、デジカメで撮影した感動画像を、その場からモバイル電話で友人たちに同時送信する方法を考案、実装、実用したと言われている。スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツと並ぶIT事業家のカーンが、この特許で初めて圧倒的な成功を得たことはめでたい。
「カメラ付携帯電話」は、画像の拡散という、かなり革命的な技術だったと思われる。「自撮り」というあまりに私的な目的で拡散したために、そしてiPhoneという発明の陰に隠れたために、筆者も過小評価してきたのだが、メディア技術としても、応用数学としても、スケールの大きい大発明だった。これが放送用か軍事用などで生まれたら、スマートフォンに搭載されて気楽なことに使われるのは数十年遅れたとしても不思議ではない。その意味でも、この発明が(Webとともに)「ネコ」によって生まれたのは、人類にとっての幸運だった。
人は外の「気」を受けて心の「気」を動かす
Webは、画像・映像をモバイルで共有する文化を瞬く間に普及させた。そして、Webで人々がが最も共有した「コンテンツ」は、人のために働く犬ではなく、自己中心性を自他ともに許す猫だった。なぜ「猫」か。かつて「猫写真」は動物・ペット写真の一つで、写真集やカレンダーも、猫好きに人気があったが、それは「モデル」「画家」「写真家」「情景」が揃ったプロのものだった。しかし、Webで毎日のように更新・共有されているビデオ映像は、良血の美猫ならぬ「不機嫌猫」「ぶさ猫」「どや猫」あるいはシンプルな「ブチ」まで広がっている。
人は「老若美醜を問わず、あらゆるふつうの猫の「ありのまま」を眺める(あるいは人と共有すべき言葉を探す)ことに飽きなくなった。つまり、いくらいても邪魔ではないという状態だ。これをもう「ブーム」とは言えないだろう。岩合光昭氏のような写真家がTVを通じて「普及」させたこともあるが、意外にも猫コンテンツは多くのも人々を次のコミュニケーションに誘っているのである。「スーパーヒーロー」も、「スターウォーズ」も、「無名」「日替わり」のスターに対抗できない。かつてマス・メディアは「量」で「質」を圧倒した。いまや無名ネコの量は質に転化し、「マス」を無力化しつつある。
Webを通じてネコが発するUXの「気」が、人を動かし、「何か」を共有するからだ。それが作家やクリエイターに閃きを与えるだけでなく、キャットフードその他の購入に向かわせることは実証済みだ。
新聞・雑誌・TV・交通手段、商店街から歩道など、「人の動き」のあるすべての空間は「メディア」であり、一定の広告効果を持つ。そして印刷物や放送媒体、看板から最も遠いWebサイトが広告効果を持つ。「アフィリエイト・マーケティング」として注目されるのは、機会が拡大し、低リスクで、潜在的に最も効果が高いためだ。猫はWeb時代の(少なくとも最初の)広告スターとなった。あらゆるコミュニケーションと同様、効果は発信者と受信者をつなぐ「意味」のコンテクストの成否による(例:猫嫌いには猫ビデオ、キャットフードは無意味)。逆に言えば、相手のことを知れば知るほど、効果は高くなる。
フェイク vs. チェック
逆に、例の「嘘も百回言えば真実に」という仮説は、メディア/情報の独占が薄れ、億単位の人間がメディアの受発信手段を持ったWeb時代には、限りなく真実でなくなる。Washington PostのAIを使った Fact Checker (04/30/2019)によれば、トランプ大統領は828日間に1万111個の虚偽または誤認を含む主張を行ったそうであるが、最高権力者の大統領が毎日10個以上の「ウソ」を発生させている(ことが検知される)のだからすさまじい時代だ。つまり、誰もが「大統領のウソ」と付き合っている(が問題はない)と考えていることを意味している。「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタ人は言った」という有名な「背理」が日常的になる時代が到来したわけだ。
常識的な感覚の人には耐えられないかも知れないが、考えてみれば、すべての人は「クレタ人」である。つまり誰もが嘘をつき(つかされ)、誰もが疑い(信じさせられ)、誰もが間違いを犯し、時には正しいことをしている。Webの時代は、ただ非常に多くの情報を、非常に多くの情報源から得て、自分にとって意味のある「ストーリー」を得ることが出来るということだけだ。昔から人々は得られる情報の中から「意味のあるストーリー」をつくってきた。権力者やマスメディアが矛盾した「ストーリー」を発信するようになったのは、彼らの「ストーリー」が分裂してきたということだ。神ならぬ人間のメディアは、つねに嘘と真実を運んできた。インターネットで「フェイク」が始まったわけではない。
これは良くも悪くもないが、私たちは(純真を装いつつも)賢明でなければ、幸福・健康から遠ざかることを知っておいたほうがいい。そして信頼のおける誠実な人を増やしていくことで、可能な限りのよい世界をつくっていくことが出来る。かつての「マスメディア」の時代のような、情報=信頼を独占するような存在は「戦時体制」でもなければ現れないだろう。 Fact Checkerはいたるところに現れ、クロスチェックされ、さまざまな信頼値とともに並ぶと思われる。しかし、猫が可愛いかどうかは、ストーリー抜きでユーザーが選べる。猫はウソから遠い存在なのだ。◆ (鎌田、04/30/2019)