「音楽は言葉で名づけることが出来ず、知ることが出来ないことを伝える」とレナード・バーンスタインは言っている。音楽は「体験でありコミュニケーション手段」でもあるということだ。とはいえ、音楽について語られることは、演奏はもちろん、楽理や記譜法からコンサートの絶叫に至るまで、古来尽きることはない。それは体験が基本的に「意識 (内的知覚現象)」に属することで、語り・伝えきれないものだからだ。バーンスタインも、あらゆる場所で、あらゆる人に話すのが好きだったが、それ以上に「音楽」を表現したかった。(写真はオランダ出身のエディ・ヴァン・ヘイレン)
熱狂の三位一体と喪失体験
語り尽くせないもの(体験)ほど、語りたくなるのは、社会的動物としての人間の習性だろう。それは(誰かの前で)表現を「発見」し「共有」せずにいられない感情から生じるのだが、もし通じれば「共感」を深め、さらに多くを知る可能性もあるからだ。そして獲得した体験が何であったかについて整理をつけなければならない時もある。社会的にも大きな存在を占めていた体験の対象の「喪失」がそうだと思う。
先月の末 (04/27)に、Rolling Stone誌 (David Browne)が「絶滅寸前の危機、ギターソロはもはや過去の遺物なのか」という記事を載せた。この雑誌がこういう「痛苦」なメッセージを発したことは重い。これは、「新しい」ギターソロを生み出す音楽、要求する聴衆、ステージで具現化する式典の祭司のようなスターという、「熱狂の三位一体」の臨界条件が(もしかすると永久に)失われたことを意味しているかもしれないからだ。
「ギターソロ」は、ロック音楽におけるアリアのようなもので、それ以上に「陶酔=熱狂=共感」という若者の夢を一体化し空間として具現化したもの、と筆者は考えている。事典風に書くならば「1960年代にアメリカ=英国から生まれ、1980年代に消滅したグローバルかつ社会的な音楽様式、運動」ということになるだろう。音楽史上に知られ、市場でも復興した初期のイタリアオペラにおける「カストラート」のようなものかも知れない。ちなみに、ジェラール・コルビオ監督の映画(1994)を見た時に連想したのは、エルヴィス・プレスリー以来の天賦の楽才を感じさせた、フレディ・マーキュリーだった。どちらも早逝した。
フレディの声はブライアン・メイのギターと絶妙に調和しつつ「クイーン」の音楽を、大西洋を越え、インド洋を含むグローバルなものに昇華させたと思う。そういう意味ではこれが「ギターソロの死」でもあったのかも知れない。ギター・ソロは、音楽的・時代的・社会的・世代的・地理的な限定が強い、かなり偏向が強いものだったと思われるからだ。「ソロ」はもちろん若者の「孤独」で、それが音楽的共感を呼ぶのは、強い感情を伴うメッセージが旋律に織り込まれた時だ。(写真はソプラノ歌手モンセラート・カバリェと共演した1989年当時のフレディ)
筆者のロック体験(といえるものかどうかは怪しいが)は、1990年頃の再開発が始まったロンドンのキングズ・ロードで、ビールを呑みながら聴いたローカルなバンドのものを記憶している。ロックの風土性を感じる機会は、以後ない。メロディが様式化・陳腐化したと感じられた瞬間、ソロギターも、軽い役者の「見得」に終わる。
日本のメロディの再創造はあるか:伊福部 昭を聴く
音楽の基本は、リズムとハーモニーとメロディである、とされる。これらの中で、メロディだけは異質なもので、喜多尾道冬氏の「シューベルト」 (1997、朝日新聞社)は、19世紀初頭という、近代における「旋律」の運命を軸に語っていて説得力がある。
「旋律」は、いつの時代にも同じように湧いてくるものではないらしい。オペラの「愛」も、ヴァーグナーが開祖となった「陶酔=熱狂=共感」の音楽劇も、超時代的な「メロディ」があればこそ、何度でも再演され、かなり個人的なスケールではあるが体験を再生産してくれる。これは「喪失」体験も織り込まれている。
「旋律」が尋常でない共感作用を発揮するのは、孤独・絶望を癒してくれる愛・友情・憧れ・郷愁が得られる時だ。あるいは音楽にはそれを生み出す力もある。ギター・ソロはアイリッシュ音楽や黒人音楽などから仮想の「故郷」を借りてきて、共感から陶酔を励起する対象を描き出した。1990年代以降のロック(あるいは若者)には孤独・絶望からくるエネルギーが足りず、音楽は最も安直な共感装置、あるいは体操のようなダンスリズムに支配された。嘘くさい「熱さ」より「これが私の生きる道」が共感された時代。これは悪くなかったが、やっぱり続かなかった。道は決めるものではなく、できるものだ。
しかし、不幸にして、生きる道など簡単に選べない、社会が道を踏み外す「戦争」の時代が訪れようとしている。故郷はあるだろうか。
筆者はめずらしく伊福部 昭 (1914-2006)を聴いてみる気になった。YouTubeなら主要作品が聴けると思ったところ、これは凄い。「和」の外側から力強く響くリズムはもちろん、ハーモニーも旋律も本物であるが、なによりも「物語り」が表現されている。ほとんど独学で海外デビューとなった『日本狂詩曲』や75歳の『交響頌偈「釈迦」』などを聴いた。「ゴジラ」のイメージが強すぎて敬遠してきたが、これは大変なものを見落としていた。◆ (鎌田、05/13/2019)