筆者は近年、中国やインドの音と映像記録から見える「人間の文化・社会」をテーマに、「全体」として「体験」的に観察する遊びにはまっている。「良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである」と、かのデカルトは『方法序説』で言っている。筆者は、本ならぬ、マルチ×メディア体験で「脳内オルギー状態」を発生させて夏を乗り切ろうというものだ。長年、文字で記述された(静的な分析や印象)をその通りのものとして錯覚してきた反省から、世界を映画や音楽、料理、文化などの(なるべく非言語的な)素材を通して体験することで、何かを発見しようということでもある。これは、Webによって、歴史上かつてなく安価な娯楽になっている。人様と共有できるようなものであれば幸い。
※文中テキストリンクはWikipediaや説明サイトに、図写真はストアにリンクします。
「古典」片手に「中国」コンテンツ
もともと映画はあまり観ていない。コストと時間を際限なく浪費する映画より、言葉で理解・表現・共有できる経済的なメディアを好む、ケチな性癖のせいだろう。しかし、幸いにして、Webでランダムに追い駆け、かつて高価だったコンテンツの発見=再発見が楽しめるようになった。紙の本よりはるかに安上がりだ。「映画」という複雑・高価な構造物は、こうして鑑賞するのに最適だ。販促と直結している映画批評は、書評より害が多いこともよく分かった。
五感を通じて、時間とともに意識のフィルターを通過していく体験は、もともと語れないものに「意味」があり、語られるものは最初から陳腐だ。すぐれた映像作家はそのことを百も承知で、語れないものを独特の方法で残している。語れないものは、たとえば、インドにおける「神」であり、中国の「パワー」などだ。これらは味、香、体臭、騒音などとともに漂う。最近の筆者の経験では、古典となる本と映画、音楽、パフォーマンスの映像などをマッシュアップすると意外な発見があることが分かった。まずはトライアルから。
1980年代に香港映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(1987、チン・シウトン監督/上写真)が世界的にヒットしたことがあり、筆者も珍しく映画館で観て、甘いストーリーとアクション、踊り、響きが巧みに交錯する斬新な映像に酔った。刺激が強すぎる映像は最小限に留める(仕事が出来なくなるので)ということで、本作(倩女幽魂=原題)のことはそのまま記憶に沈めておいた。
最近DVDで観て、YouTubeで反復視聴した印象は「傑作!」の一語だった。当時、記憶に残らなかった俳優の細かい演技、セリフ、ロック風の主題歌(人間道)、編集、ワイヤワークなどが一つのつながりとして実現されると、これが古典と呼ぶに相応しいものだったと確信した。早逝したレスリー・チャンのエロス、SFXの鬼才ツイ・ハークの映像の展開力などに改めて圧倒された。
傑作である理由の1つは、古典から始まる、異質なもののマッシュアップという構造性。ハチャメチャに見えながら(だから誰が見ても面白い)、説得力を生む一貫性があるのは、古典の引用が的確であるためだと思う。2つ目は、ジャンル(幽霊)や主人公(苦学生、武侠…)の伝統の複合。3つ目は、映画というテクノロジーにおける伝統(とくに幽霊が宙を飛ぶワイヤワーク)、4つ目は、笑いの伝統(幽霊、中国風トークバトル)といったところだ。
幽霊と女狭
この「倩女幽魂」(1987) には、中国・志怪小說の「聊斎志異(りょうさいしい)」の中の小品「聶小倩(じょうしょうせん)」というオリジナルがある。映画では、1960年のリー・ハンシャン (李 翰祥) 監督が最初の成功作だ。
武侠もので知られるチン・シウトン (程小東)監督は、同世代のツイ・ハーク (徐克)(=製作)と組んで、この幽霊もの倩女幽魂にアクションという活性を入れて脱構築した。
今回気がついたのは、原作の情感に活性を入れて組替えるという発想は、1960年代に香港映画の大巨匠キンフー (胡 金銓) 監督がすでに試み、しかも見事に成功させていたことだ。キンフー監督は、『山中傳奇』『大酔侠』『侠女』『新龍門客棧(ドラゴン・イン)』などの傑作があり、静と動、情感と活性、生と死、男と女を盛り込み、細密な自然、人間描写とともに絵として織り込むという驚異的な作品を実現したのだ。
ツイ・ハークは、監督として後に何度もこれらに挑戦しているが、「武侠」もののワイヤワークをロマンチック幽霊映画にも無理なく織り込めたのは、よりスケールの大きい共有空間としてのキンフーの「世界」が存在したからだろう。
「武侠」とその女性版の「侠女」は、秀才(科挙)、女幽霊、などと同じく中国文学の創作世界の重要なモチーフだが、そうした「定番」を、絶えず蘇生、復活させるところに古い文化的世界での「創造的伝統」がある。古典はアーキタイプとして、創造の源泉となるものだ。縦糸を「経」横糸を「緯」と言い、歴史として繋いでいくものが「経」だが、縦糸(時間)だけでは記録されず、横糸だけでは意味は読めない。創造行為/作品が人から人に繋げられなければ、古典として幅広く共有されない。縦糸は時代とともに素材が変化する。社会が変われば人間とその関係も変わるが、新しい古典が生き残るかどうかは「社会」の力による。
『聊斎志異』は清代初期の文人、蒲松齢(職業は「ライター?」)の作品として日本でも古典として親しまれてきた。伝統的中国社会では、経書や詩文(ノン・フィクション)が高級出版物であるのに対し、口語および小説(フィクション)は「古典」には分類されない。時代を超えた「リアリティ」を感じさせるのは、文章が優れており、自由な想像力を刺激するためだ。「侠女」という存在も、唐宋時代から伝奇小説に登場している。キンフーは簡潔で余韻を残す蒲松齢の「侠女」から、凛とした殺気と生気を漂わせる、リアルな女侠を生み出した。筆者はこれによって初めて侠女が空想の存在ではなく、少なくとも人々の記憶に生きた存在であることを知った。◆ (鎌田、07/23/2019)
※『新装版 キン・フー武俠電影作法』(草思社)は、中国伝奇・アクション映画の伝説的名匠―香港・台湾映画界に大きな足跡を残したキン・フー監督の唯一のロングインタビューを載せている。