ものごとの初めと終わりは、その本質を知るうえで重要だ。「和本」の世界は、著者と読者と本を様々な形でつなぐ「本」屋で成立っていた。社会の言語活動の要としての「本」が必要とする専門性と一貫性、持続性は、本屋の開放性によって保障された。『江戸の本屋』はそのことを教えてくれる。活字は130年あまり前に和本を駆逐したが、それもやがて終焉を迎える。 ... [続きを読む]
江戸の出版文化
橋口・和本論を読む:(1)本・出版・読者という「関係」
「鶏と卵とどちらが先か」ではないが、「本屋と本とはどちらが先か」という話はどうだろう。本とは何か、の答に直結する疑問に、筆者は橋口侯之介さんの『江戸の古本屋: 近世書肆のしごと』がどう答えてくれるかに関心があった。近世日本書籍・出版史とも言うべき本書は、本からではなく、歴史的に存在した「本屋」の仕事から丹念に考察し、「本屋は基本的に古本屋」である、と結論している(風月庄左衛門の『日暦』)。 ... [続きを読む]
プレ・グーテンベルクの復興(1):はじめに
「グーテンベルク以前の書物のための仮想読書環境の構築」という筆者のアイデアが、今年のフランクフルト・ブックフェアの Digital Publishing Creative Idea Contestで表彰された(→リリース)。本サイトでも取り上げてきた「和本プロジェクト」(Project Beyond G3)の最初の対外的成果である。発表内容について連載でご紹介してみたい。(鎌田博樹) ... [続きを読む]
和本論からE-Bookへ (2):共感装置としての書物を蘇らせる
これまで世界の古典籍の電子化は、画像データ化を意味していた。これは必要なステップだが、それで書物が当時実現してきた読書体験が、今日の人々に共有されるわけではない。それらを活字に翻刻し、注釈を入れ、あるいは現代語訳したものが、やはり別の一面を伝えるものでしかないように。では全体性にアプローチする方法はないものだろうか。紙に拘らなければ、可能ではないか、というのが脱Gの出発点。(左の絵は岩佐又兵衛『小栗判官絵巻』) ... [続きを読む]
和本論からE-Bookへ (1):書物としての絵巻
和本が拓いてきた世界 2 ─ 書入・注釈/橋口 侯之介
和本が拓いてきた世界 1 ─脱Gから創造的技術への提案/橋口 侯之介
「書物における明治二十年問題」3/橋口 侯之介
活字に「中毒」してもそう害はないが、活字を「信仰」するのは本好きとは言えない。本は活字以前にも存在したし、活字と共存し、日本では長い間、活字出版を圧倒する存在だったのである。活字を信仰するのは自由だが、それを他人に押し付け、多様性を許さず、デジタル技術が拓いている可能性に背を向けるとしたら問題だ。橋口氏が提示する非活字出版の豊かな世界は、21世紀の出版が進化すべき方向を示唆しているように思える。(編集子解題) ... [続きを読む]
続「書物における明治二十年問題/橋口 侯之介
和本はその複合的な価値と維持性の故に、なお伝存している。他方、大量生産で江戸の本屋業を壊滅させた近代の活字出版業も黄昏を迎えた。活字の制約から離れた「出版」業をゼロから再構築するという仕事が現在の出版人に課せられている。活字の電子化に何か意味があるように考える人がなお少なくないが、近代によって失われた江戸出版の豊かさ(多様で奥の深い書物観)こそ、インターネットを前提とした次世代の出版が復活すべき価値であろう。(編集子解題) ... [続きを読む]
「明治二十年問題」をめぐって/鎌田2:活字再考
日本の出版文化は江戸と明治の間で断絶している。日本語も文学も変わった。著者と読者の関係も。それは「文明開化」のせいだと聞かされていたのだが、小林さんの前回の話を読んで、どうやらそれは「活字」や「文字組み」と関係がありそうだという気がしてきた。和本と活版本の文字の最大の違いは、平仮名の続け字である「連綿体」である。どうしてこれは活字化されなかったか。それによって何が起きたか。(鎌田) ... [続きを読む]