EPUB3を軽視したアップル教育戦略の失着 (♥)

アップルがニューヨークのグッゲンハイム美術館を借りて行った教育市場戦略の発表から2週間ほど経過した。iBooks Author (iBA)でメディアの度肝を抜いたものの、同時に提示されたエコシステムの窮屈さに、出版、教育、Webの関係者の反応は、失望と怒りがほとんどで、「教科書を発明し直す」という意気込みは空振りに終わったように見える。ジョブズのオーラが失われたいま、世界一リッチな企業となったアップルには賞賛よりも「強欲」への非難が目立つようになった。最悪だったのはEPUB3を骨抜きにしたことだ。 [全文=会員]

教育をアップルの世界に押し込めることは出来ない

教育において、iPadのUIがベストに近い環境であることは多くの関係者も同意する。動的な電子教科書は、初等教育から高等教育までの幅広い現場で検討され、試験的に導入されている。しかし、エントリーで500ドルという価格は、リッチな大学でないと導入できない。価格の高さは、アップルが空前の利益を上げている時には、いっそう重く感じられる。教育用に安く提供するのでは、という期待もあったが、それもなかった。そもそもこの会社が教育用に機材を安く提供した事例は、相当昔まで遡らないとない。社会貢献ならマイクロソフトやビル・ゲイツ氏のほうがよほどやっている。

教育という複雑なシステムの中にiPadエコシステムという人工臓器のようなシステムを移植してスムーズに機能させるためには、iPadを教育環境に合わせることが不可欠であるはずなのだが、提案されたものはその真反対だったからだ。臓器の良否以前に拒絶反応を引き起こしたのは当然だろう。ざっと、以下のようなことは必須であると思われる。

  • iPadの低価格化を前提とした教育機関による制式導入
  • 標準フォーマットを前提としたコンテンツの(学校による)自由な選択
  • 利用法開発への教育界による自発的参加と推薦
  • 特定のデバイス、特定のプラットフォームからの独立性
  • 出版社を中心としたコンテンツ提供者の利益機会の保障

ところが、iPadはこれらの条件をことごとく無視している。あまりにあっさりと。世界一の技術を持った、世界一のリッチな企業にはそんなことは関係ないと言わんばかりだ。ビジネスモデルは奇怪なまでに「教育」への配慮がない。無償のiBAは、教育以外のすべてのアプリにも開かれており、それは自主出版を奨励しているように見えるが、出版できるのはiTunesに限られる。前回述べたように、商業出版社はこれに乗れない。教育系はなおさらだ。アップルの発表には教科書市場でシェア90%を占めると紹介された3社が登場したが、全面的にアップルのモデルを受け容れるとは言っていない。

教育/出版関係者の反応は、結局のところ「紙の教科書からデジタルへの移行が必然で、動的コンテンツが技術的に手の届くものとなったことは分かった。」ということに止まり、iPadとアップル・モデルの導入には向いていない。これはアップルにとっても予想外だったように思われる。

EPUB3をコケにしたのは奢りか錯覚か

EPUB3をダシにしたiBooks 2は、IT/Web関係者の失望も買った。アップルはEPUB3を採択したIDPFの主要メンバーの一つで、そもそもEPUB標準の完全なサポートはアップルがiBooksを立ち上げた際の公約だった。この公約はつい最近(12月22日時点のFAQ)まで踏襲されていた。オープンな標準の拡張は誰にも許されていることなので、それ自体は悪くないが、コロコロ変えられるのは困る。1990年代にマイクロソフトの社内文書にあったのが漏れて有名になった「取り込み、拡張し、骨抜きに」という悪名高い3E (embrace, extend, and extinguish) 戦略を髣髴とさせるものがある。ジョブズの魔法があれば、大切なのは標準よりも創造性とか言って相手を黙らせることも出来たかもしれないが、そんな芸当は誰にもできない。

E-Book 2で出来ることはEPUB3でも出来る。しかしデータの互換性はまったく(あるいは基本的に)ない。MIMEタイプを変え、CSS(W3Cの標準)に拡張を加え、アップル固有のクローズドなXMLネームスペースを使用しているためだ(Baldur Bjarnason, 01/19)。「ほとんどEPUB」がEPUBとしては全然使えないものとしているのは、例えば、まったく創造的でない悪知恵のような仕掛けだ。application/epub+zip の代わりに application/x-ibooks+zip としただけで、EPUBリーダで読めなくなる。ZDnet (01/22)のエド・ボット氏が、WordドキュメントとiBAで作ったファイルは、x-ibooksepub にしたら、本文はオープンソースのCaribreで読むことが出来たが、表紙と目次は壊れていた。iBAにはインポート・メカニズムもないので、EPUBを読むことも出来ない。SafariのHTMLデータをiBAに貼り付けても、マークアップが失われて機能しない。iBooks 2.0とEPUB3の違いは些細なものであっても、iBAファイルはそれ以外の環境では無意味なものとなるのだ。

アップルはおそらくEPUBをインポートできるようにはするだろう。そうなれば、最初にEPUBで作ったコンテンツをiBooks用に変換することで、出版社はプラットフォームを並列化することはできる。しかし、それでもEPUB3ツールは必要になるので、ユーザーにとってのiBAの価値、アップルの有難味は大幅に下落してしまう。アップルは、EPUB2はよいが、動的機能はiBooksだけでやれ、ということなのかもしれないが、EPUB3が標準として存在する中での小細工は、およそ教育環境を委ねられる企業の態度ではないし、ユーザーを不快にさせるだけだ。

EPUBを骨抜きにしたことで、アップルの得になることがあるとは思えない。逆にアマゾンとアドビを大いに喜ばせるだろう。標準EPUB3オーサリング・ツールは絶対に必要なものとなる。iBAに対抗するために安価で提供されれば出版社や教育関係者が喜ぶ。アマゾンは進んでアドビに協力する可能性がある。アマゾンKindleフォーマットもEPUBではないHTML5方言だが、アップルよりは風通しがいい。そして格安のタブレットを教育関係に提供できる。コンテンツサービスとパッケージした柔軟なプログラムでは、すでに教育市場で先行している。アップルの資金力とiPadの圧倒的なシェアをもってしても、こうしたライバルはどうにもならないのだ。ジョブズの死後の名声を傷つけ、成仏(昇天?)を難しくするようなことは止めたほうがいい。今ならダメージはない。  (鎌田、02/02/2012)

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