東京国際ブックフェアには金曜日の半日だけ、という駆け足だったが行ってきた。全体に規模も縮小し、参加者も減り、さらに「ブック」部分の衰退が目立つという、梅雨寒の様相を呈しているなかで、「電子」部分では出版オリジンでない本気の会社が元気で、その周囲だけにかなりの人が蝟集して見えた。この状態が続くはずはなく。変化は遠からずありそうだ。
出版社は「電書ブーム」というチャンスを逃した
リード社が主催するTIBFは、今年で21回目を数える。ロンドン(LBF)、ニューヨーク(BEA)と比較すると、かなり独特なものであるのは、日本の出版業界の、閉鎖的で、東京に一点集中し、長期の刊行予定も発表されないという性格による。アニメやゲームなどのようなファン中心のイベントはなく、商談の場としての希少性はなく、マーケティングの場にもならない。こうしたハンデを負って出発したブックフェアは、日本の出版界に欠けていた部分を補い、世界に通用するものとして発展させていく使命を持っていたとも言える。欠けた部分を要約すると、グローバル、マーケティング、テクノロジーの3つということになるだろう。
以上の3つは、TIBFの主催者にも意識されてきたところで、「電子」「コンテンツ」の併催はその努力の一環だ。しかし、展示という面ではよくオーガナイズされてきたとしても、テーマとして統合され、共有(展開)されるにはなお遠い印象を受ける。18年に及ぶ出版業界の凋落(日本だけの、構造不況)に立ち向かう方法を共有すべき数少ない場であったに違いないのだが、残念ながらそうなってこなかった。
かつては、新刊が2割引で買える、年に1度のバザールとして多くの愛書家に利用されていた。古書市に対する新本市のように。しかし「出版不況」は1998年以降、構造化されて定着。書籍も雑誌も凋落する中で、出版社はしだいに出展費用を削り、展示即売される本の数も減った。消費者にとっても、発見と出会いが期待できるバザールではなくなったのだ。「電書」は期待を抱かせ、それが2012年までの活況をもたらして全体を救っていたが、消費者が期待したのは新旧のコンテンツとの新しい出会い、新しい読書体験だったのに、イベントは消費者優先ではなく業界優先の旧態依然たるもので、これが出版のイメージダウンにつながったと思う。出版界が2010~2012年にやっていたことは見当違いだった。
痩せてきた「ブック」
昨年12月、国際出版協会(IPA)の Y.S.チー会長は、出版産業のイメージ問題を提起し、「私たちは産業として深刻なイメージ問題に直面しています。…それは私たちがもはや文化の守護者ではなく、むしろ知識を厳重に保管する、強欲な存在と見做されているということです。」と述べた。同会長は学術出版のエルセヴィア社(強欲の批判を浴びている側)の人なので、かなりの反響を呼んでいる。つまり、出版は世界的にイメージ上の危機にあるということだ。この問題が最も深刻な日本で、消費者を無視(再生への機会を逃)し続けてきたのだから、見放されるのは当然だ。
出版の危機の時代に、大手出版社がそこそこのスペースをとっても、書店や図書館関係者、読者に対するメッセージも、特別な何かもないのでは、空虚というだけでは済まない。そこで明確な意図を持った宗教出版社ばかりが目立つ存在となる。また「国際」の部分は世界の大出版社や出版関連サービスが出てくることもないので、招待国(今年はマレーシア)のほか、中国・韓国やイラン・サウジアラビアが目立つという具合。角川会長の意気軒昂は心強いが、他社は前を向いているように見えない。
今年のイベントは、「ブックフェア」の中心と考えられてきた存在が痩せ衰えてきたことを見せつけるものだった。まだ出版がバブルの高揚から醒めていなかった時代に始まり、伝統出版の長い凋落の時期を歩んできたブックフェアは、この数年で「電子」を材料として新しい出版の姿を示す絶好の機会を得たが、なお成功していない。挽回のための時間はそう残されていない。
出版は人々(社会)と外部世界との関係を映す鏡だ。それが弱まっていることを認めなければならないだろう。人々の外への関心が弱まれば、社会(世界)の拡張が止まり、縮退していけば、好奇心も知的欲求も退化する。その結果は無明ということになる。出版に携わる者は光に向かって進むべきだ。そこにしか生きる道はないのだから。 ◆(鎌田、07/08/2014)