衰退する出版に対して、どんなオルターナティブが提起されるのかで期待したのだが、7月4日に開催された、業界有志による「裏ブックフェア」は、ユルさと刺激とが混ざった、全体としては不消化なイベントだった。グーテンベルク出版が漂流を始め、デジタルはアマゾン独り勝ちという形勢の中で、表も裏も方向感を見失っているようだ。
ユルかった“裏本フェア”
ブックフェアをめぐる記事の最後に、「第2回 東京国際裏ブックフェア」について触れておきたい(以下裏本)。有明の近くにあるタイム24ビルの会議室を借りて行われた2,500円の有料イベントだが、主宰者はとくに明記されていない(「仕掛人」は大西隆幸氏、「登壇者」はこちら)。裏というだけあって、動画やTwitterでのライブ性は皆無。スライドも公開されない。質問も受け付けないのは、かなり面食らった。それに血糖値の下がる夕食時に3時間も聞きっぱなしというのは、かなり堪える。なんか凄い「裏」や「ホンネ」が聞けるんだろうか、という勝手な期待はすぐに裏切られた。
ユルい雰囲気のなかで、話はノンストップで淡々と進む。表フェアの感想から始まって、米国BEA 2014、セルフパブリッシング、電子雑誌、著作権法改正(電子出版権)を、パネル風に論じるというスタイルだが、重要な論点が生煮えのまま、並べられていくので、こちらは空腹感が募るばかり。ほかの皆さんは満足されたのだろうか。
例えば高見真也氏(eBookエバンジェリスト)による「電子雑誌」の話。筆者は意見を異にするが「電子雑誌はあります!」というのは重要な問題提起だ。これは「本とは、雑誌とは何か」に関するものだからだ。「電子雑誌元年はまだ来ていない」と高見氏は言い、これからの「電子雑誌」は、従来考えられていたような、大画面、リッチコンテンツ、マイクロコンテンツを中心としたものではなく、スマートフォン、シンプル、サービス化、を特徴としたものとなるだろう、と予言するのだが、これは刺激的な主張で、議論の出発点としてはいい。しかし、あとがいけない。「電子雑誌は紙には勝てない!」に、思わずのけ反った。
「雑誌」はこれからも出版活動の土台であり、柱であることは間違いない。だが、衆知のように、いま紙の雑誌は確実に衰退に向かっているのだ。紙と電子の優劣を論じても意味はない。「電子雑誌は紙には勝てない!」というのは、現時点での評価としては、多くのケースでは正しい。だからこそ皆ユウウツなのだ。それがビジネスとしての雑誌が消滅することを意味する可能性が強いからだ。読者が購入しなくなれば、広告が入らなくなれば、販売店が減れば、雑誌のビジネスモデルは崩壊する。それも遠い先ではない。問題提起に対しては、「なぜ」「だから」を中心とした議論が不可欠なのだが、このトークショーはパネラーからのツッコミも、司会者のリードも入らない。
高見氏が言うように、雑誌は書籍よりはるかに複雑だ。編集、構成、形態、商品、流通など、書籍とはまるで違う。しかし、重要なことは、それが書籍(や他のあらゆるメディア)とともに、Webにおいて仮想化できるということだ。筆者は、Webで利用出来るもの(メール、サイト、コンテンツ)を、紙やオフライン・ミーティングと組合せ、あるいはデジタルのみで定期発行するのが「雑誌」であると考えている。雑誌において不可欠なのは、テーマ、トピック、著者を発見し、インタフェース、テクスチャ、品質などの適否を定常的に判断する(生きた人間としての)編集者/プロデューサーであり、これは媒体が何であっても変わらない。しかし、デジタルにおいて、その生きた編集者は、ライターや読者と対話する能力を持たなくてはならないだろう。
サービスとしての雑誌というのはよい着目だが、ほんらい雑誌は(もっぱら)サービスなのであり、このメディアのビジネスに関わった人間なら周知のことだと思うのだが、これまでそれを阻んできたのは紙というメディアの不自由さだ。雑誌が果たすべきサービス機能をフルに開放するためにこそデジタルの意味がある。紙とデジタルとどっちが読みやすいかなどという話は、3年前に棲んでいたと思っていたのだが。やはり、表ブックフェアにマーケティングが欠けていたせいか。
「セルフ・パブリッシング」論は、鷹野凌氏(日本独立作家同盟代表・月刊群雛編集長)、林 智彦氏や大原ケイ氏も壇上にいたので少なからず期待したのだが、欧米で議論の中心である「ビジネスモデルとしての自主出版」にはいかず、各種プラットフォームや売上など周辺的話題で終始してしまったのは拍子抜け。
「出版」なき「電子出版権」がもたらす大混乱と「結局は契約」
全体にユルイ流れの中で、筆者の眠気を覚ましたのは、電子出版権(改正著作権法第79条、80条)について、これがネット上のあらゆるものに適用される可能性がある、という指摘だった。たしかに、出版とは何か、コンテンツとは何か、著者とは、出版社とは、という出版行為についての(大いに議論がある)定義を回避し、出版権という強力な(独占的・排他的な)財産権をデジタルという仮想世界に設定したのは、混乱を拡大するものだろう。法律家も判断できないことを法律に規定してしまったのだ。
例えば、Webコンテンツに対して、メルマガ業者や投稿サイトの提供者が「出版権」を主張するケースだ。既成出版社は紙だけがオリジナルな「本」だと考えているようだが、デジタル・ファーストの「出版物」はブログといわず、SNSといわず、今後ますます増え、それらを再編集した「本」は嫌でも増えていく。そこで何も問題が生じないほうが不思議だ。筆者は、出版社と出版を厳密に定義しない出版権は砂上の楼閣に等しいと考えている。結局、電子出版権があろうとなかろうと電子出版物は存在し、それらに対する権利処理は当事者同士の(あるいは代理人を介した交渉と)契約によってなされるほかない、と考えるしかない。契約なしの財産(権)の授受は、法律による保護を期待できないのだから。
出版社(者)とは何かという伝統的な定義は、デジタルによって前提を失っている。活字や紙を扱うことなく、また配布手段を考えることなく、誰でも「出版」が可能な時代だからこそ、既存の出版社が紙にしがみつきたい気持ちはよく分かるが、それでは「出版」をただのWebの海の中の情報配布行為に溶解させることにしかならない。表フェアが提起できないのなら、裏本でこそ出版者を議論してほしいのだ。
ところで、女性が過半を占める市場であるにもかかわらず、日本の出版では女性の影が薄い。米国では、とくにフィクション系では女性読者は7割に近く、編集者も多数を占める。デジタルを推進力として出版が復興している背景には、女性の潜在力の解放があった。裏本では大原氏が「紅一点」として「国際」と「女性」をカバーさせられていた(?)が、壇上ではオヤジに優しく、控えめにしておられたのは期待外れ。女性だけの裏ブックフェアを期待するのは筆者だけだろうか。◆(鎌田、07/08/2014)