「アマゾンvs.出版社」問題は、米国の著作家有志(Authors United)が声明を出し、アマゾンとその支持者(Readers United)が反論を出すなど公開論争が活発化している。第3週はさらにドイツでも、契約交渉が難航しているボニエ出版の支援に、著作家600人あまりが批判声明を発表。ここでも公開の議論となった。私企業間の契約問題がこれほど社会化、国際化するのは異例。
「本を人質に使うアマゾン」か「作家を盾に使う出版社」か
ボニエ出版(スウェーデン)を支援するドイツの作家たちは、アマゾンが「本を人質に取っている」と言って非難している。また推薦本リストを操作し、出荷を遅らせている、とも(証拠の指摘はない)。要は互いに主張を譲らず契約交渉が難航しているというに過ぎないのだが、「悪い」のは無条件にアマゾンだと考えるのは、米国のAUの人々と同じだ。アマゾンはこれまでと同じような内容を公開して回答とした。おそらく個別の働きかけも行っていると思われる。これらすべては、出版というものの社会的性格から問題になったものであり、徹底した公開討論は、長期的に見てマイナスよりプラスが多いと思われる。
契約は当事者間の自由意思に基づくというのが「契約自由の原則」で、行為、相手、内容、方法、改廃に関しては国家の干渉も受けないことになっている。書籍の販売委託契約などは最も自由であるべきものとされている。もちろん、一方が優越的地位を濫用したとされれば別だが、これは公正な競争を維持するためのものだ。アマゾンがいくら「独占状態」にあるといっても、それは結果(としての「需要」)であって、「供給」を独占しているわけではない。しかし、出版社や出版社に本を託している著作者からみると、アマゾンはKindleという強力なエコシステムによって消費者へのチャネルを「独占」しているような錯覚を覚える。
それ以上に倒錯的なのは、通常は独占は買い手に高値を押しつけるために使われるものだが、アマゾンの場合には消費者に安値で提供するために、売り手に対して「協力」を求め、それによって市場のパイが大きくなると主張していて分かりにくい(実際にアマゾンの決算は赤字で、出版社は好決算を謳歌しているのだが)。出版社から見た「イジメっ子」は、多くの消費者にとって「正義の味方」なのだ。「愛書家」はともかく、売り手と強気で交渉するアマゾンを、「消費者」は不快な存在と見ていない。消費者の支持は、概してアマゾンに批判的なメディアを驚かせている。アマゾンが賢明なのは「消費者の味方」を気取って売り手を敵に回さない配慮をしていることだ。あくまで「著作家」と「読者=消費者」の間に立つ、無数の取捨選択の対象の一つであることを強調している。
認知的不協和の世界
「アマゾンvs.出版社」において注目すべきことは、アマゾンが明確に「著作者の味方」路線をとっていることだ。これは「本も日用品と同じ」という従来の即物主義からの転換とも取れるし、「コンテンツは唯一のもの」と考える著者の支持を得るためという必要のためかも知れない。これまで、メーカーと消費者との関係の中では、後者の立場に立つことで絶大な支持=エンゲージメントを獲得してきたのだが、著者をメーカーと考えることは現実的ではない。コンテンツが日用品と同じ性格を持つのは、商品となった以降の下流においてであって、原稿から商品形態をとるまでは「唯一無二」の手づくりでなければならない。著者や編集者が「日用品」論に反撥するのは当然だった。もしかすると、アマゾンは自ら出版を手がける過程で、「著作者の味方」となるべき必然性を認識したのかも知れない。自主出版支援(KDP)と出版販売(アマゾン出版)という2つのビジネスモデルを軸にエコシステムを発展させるためには、ということだ。
しかし、著作者(とくに旧出版コミュニティ)とよい関係を築いてきた多くの著者たちにとって、アマゾンはE-Book市場を独占し、書店を苦しめ、出版社に無理難題を吹きかける巨大企業にしか見えない。自作がコーヒー1杯より安いことに憤激する彼らにとっては、当然の主張が読者の支持が十分に得られていないことが衝撃だろう。必ずしも読者との関係を持ちたいわけでもないし、ソーシャルなど御免蒙りたい人物も少なくない。伝統的に存在してきた溝は深く、アシェットはそれをあてにしている。その分解決は長引いている。◆(鎌田、08/20/2014)