The Financial Timesを日経新聞に13億ドルで売却した英国のピアソン社は、経済誌The Economistの持株(50%)を他の株主に7.3億ドルで売却することを明らかにした。これで同社は半世紀以上保有した「ジャーナリズム」事業から完全撤退し、約20億ドルを手に、グローバルな教育出版事業に集中することになった。「選択と集中」である。
ピアソンの「選択と集中」:教育出版プラットフォーム
ピアソン社は世界最大の教育出版社だが、最大の商業出版社ペンギンランダムハウスの共同株主(47%)でもある。FTとEconomist (50%)という、ブランドとして強力なジャーナリズム部門も持っていたわけだが、今回これを手放して実質的に教育系に集中するものと思われる。ライバルのトムソン社(親会社はカナダのWoodbridge)は、逆にThomson LearningやPrometricを売却し、英国のニュース通信社ロイター(Reuters)と合併して情報サービス企業(Thomson Reuters)に特化したのだが、それとは対照的な動きだ。ピアソンとしては、成長の見込めない旧ジャーナリズム事業を売却し、新興国(≒英語実務教育)市場の急成長で拡大する教育系市場に集中するのが賢明と判断したのだろう。
ピアソンはジャーナリズムの2つのブランドで20億ドルを手にした。とくにデジタルでのビジネスモデルが描けないFTが、日本ローカルな存在である日経に13億ドルで売れたことは予想外の成果といえる。筆者の見るところ、2つの英国ジャーナリズムの名門は久しく生彩をなくしていた。ニューヨーク・タイムズにしても同じだが、面白くないし、ためになった気もしないのだ。視点の鋭さや取材力に感動すら覚えたかつての名門は、各分野でトップのタレントを擁していたものだった。当時はブランドを感じたものだが、こうなってみると、やはりジャーナリズムとは個人のもので、傑出性を証明できる個人あっての(あるいは個人に力を発揮させられてこその)ブランドであったようだ。それが消えたら現在のACミランのようなもの。
FTやEconomistがつまらなくなったのは、やはり経営者(オーナー)が時代の変化に即したスター・ライターを育てられず、そして/あるいは彼らが十全な力を発揮できるようなプラットフォームを構築することを怠ったためだと思われる。彼らは本質的にアーチストであって、常人を超えた技能と感覚を持っているが故に、(ニュースを操作するプロである各界のリーダーを含む)知識レベルの高い人々に評価されていた。それに対して「すっぱ抜き」は、一見して威力を示しやすいが、もともと「リーク」と紙一重の世界だ。どちらも印刷・配布手段を背景としていた。デジタルは、本質的にリーク向けで、無料で、しかもコントロールしにくい。だからメディアのほうが振り回され、時に無様を晒す。
デジタル時代の価値は本物の創造性
アーチストに頼ったジャーナリズムの環境はますます悪くなっている。新聞や出版はもともと装置産業だったが、伝統的な設備はオペラ座のように物理的なもので、そうしたおカネのかかる仕掛けとの相性は悪くなかった。やはり大舞台にはそれなりの役者が似合う。バランスが崩れたのは、やはりすべてを正確にコピーし、迅速かつ安価に伝達するデジタル技術が普及してからだ。一流アーチストたちの舞台は独特の紙や文字フォントだったが、そうした物理的価値はデジタルによって、一流のみに与えられる特権的意匠としての意味を失った。
旧メディア関係者がデジタルを憎む気持ちはよくわかる。彼らの仕事を真似、舞台を卑俗なものに貶めたように見えるからだ。しかし、それと同時に「アーチスト」のパフォーマンスまでも落ちていたたのだ。それはデジタルではなく安易に流れた人間の問題だ。オリンピックのエンブレム騒動で露わになったのは、グラフィックデザインという、歴史と伝統のある分野で、「作品」の力のなさを裏づける制作現場の荒廃が進んでいたことである。20世紀の前衛芸術家は、複製化する「アート」を神聖視する大衆社会と戦うことをアイデンティティとしたが、今日の名ばかり「アーチスト」たちは、一瞬で「アート」を冗談にして見せた。
額縁の権威が落ちたからといって、それが絵描きのレベル低下につながるとも思えない。情報における生産性革命(誰でも、簡単に、それなりに…)が、なぜアートの側における質の低下(卓越→それらしく=偽物)をもたらしたのか、筆者にもいまだに理解できないところだ。ただ、コンピュータの世界を見てきた経験から言うと、日本では「ものづくり」から離れるほど、デザインの創造性低下が著しくなるようだ。
それはともかく、出版においてデジタルの影響を最も受けたのがアート的部分であり、ビジネスモデルとして機能させているのがシステムとネットワークを生かし、アーチストに依存しない情報サービス(ブルームバーグ)や、同じくエドテックを背景にした教育出版(ピアソン)というのが現状なのだろう。教育分野は、伝統的に「生産性」という観点では非常に効率が悪かったので、ピアソンがここに集中するのは理解しやすい。逆にこの時代に、システムやネットワークではなく「ブランド」を取った日経の計算には疑問が残る)FTを読んでいた人間がどれだけいたろうか。
複製を超える発見と創造:ビッグデータもアートも
20世紀の情報産業は2つの武器を持っていた。大量伝達手段とコミュニケーションにおけるプロフェッショナリズムである。設備・組織の比重が大きく、専門性が限定されている放送がマス・コミュニケーションの主役になり、設備よりもアーチストの専門性(知識・思考・表現)が生きる活字産業が重厚な脇役とを演じることでメディアの舞台が安定的に回っていた時代は、21世紀の到来とともに、やや唐突に終った。
放送・出版とも、大仰な設備は不要になり、一見して、素人と玄人(の制作物)が区別できなくなる。しかし、旧メディア側の対応は、むしろそれを助長するものだった。つまり新しく生まれたネットワーク環境においてコンテクストをソーシャルに深化する必要性を理解せず、ただ商業的にフォローする形で追随してきたのだ。本来優位を持っていたメッセージ性は薄められていく。キュレーターを自任しても、「その程度」のキュレーターが主導性を持てるわけもない。重要なことは、もともと理解者が少ないアートとアーチストが尊重されなくなり、むしろ償却を待つ設備と同じような扱いをされるようになったことだ。
メディアビジネスが生き残るには、システムとタレントの両面での対応が必要なのだが、システム/データについては再構築/リプレースが必要で、アート/タレントについては再発見/再創造という異なる対応が必要であると思われる。異能を評価する反「大衆的」価値の訴求こそ、長期的には多くの人々に認められるだろう。それは何も新しいことではなく、メディア産業のよき伝統としてあるものだ。
たしかに、人々はこれまで額縁や値札をインタフェースとして情報を体験し受容してきた。額縁が安くなり、どんな「著作物」にもつけられるようになったことは確かだ。メディアのプロフェッショナルがすべきことは、長期的な価値を発見し、訴求する方法を考えることで、デジタルをまがい物や代用品を提供することに使えば、確実にビジネスの価値を毀損する。
筆者自身は、絵と額縁、茶器と箱書がバラバラになった状態で、「ゴミ」の山から宝を発掘するのが好きだ。だからインターネットによって価値と価格の関係(市場経済における重要ななコンテクスト)に混乱をきたしたこと自体は歓迎するし楽しんでいる。コンテクストを自由に再構成できるからだ。それは新しい価値=再生産=市場につながる可能性を持っている。
いずれにせよ、現在のデジタル技術の流れは、アーチストなき旧メディアブランドを陳腐化し、オーディエンスのビッグデータを生かせるエコシステムの価値を高める方向に作用している。後者はもちろんアマゾンやピアソンが追う方向だ。日経新聞にはウェスティングハウス社を高額で買収した東芝の運命をたどらないことを願いたいが、そうならないためには、紙の神殿の上に築かれたジャーナリズムの立ち位置を修正し、ネットの上でオーディエンスとの間のコンテクストを多様化する必要がある。◆ (鎌田、08/18/2015)