米国作家協会(AG)の出版契約改善キャンペーンのシリーズで、著作者の活動に制約を課すことになる競業避止義務(NCC)について取り上げられた(08/27)。しかし、客観的に見てNCCの意味、効果はすでに薄れている。「版」を所有できる著者にとって、出版社は必要不可欠な存在ではなくなったからだ。AGは出版社と著者の新しいパートナーシップを提案している。
一方的、不平等な契約「競業避止義務」
競業避止義務 (Non-compete clause)は、商行為(商法/会社法)、雇用(労働法)に関連する契約で問題になるもので、地位利用と競争的取引の禁止を含む。日本の出版契約で当事者間の係争になった例は知らない。しかし、米国では標準文例にも登場するもののようで、出版活動が国境を越えるのが当たり前な時代にはNCCも知っておく必要がある。
「著者は書きたいものを書き、それを出版する自由を与えられなければならない。しかし出版社はしばしば、それを不可能にする条項を押しつけようとする。著者に自らの著作と競合する著作を出せなくするために、出版社は無遠慮で厳格な文言をこしらえて、著者が生計を立てることを不公正な方法で阻害しようとする」とAGは述べている。NCCは本来、著者が前著の内容とほとんど変わらない「新著」の出版を別の出版社と契約することを防止するもので、商道徳の範囲とも言える。日本では(契約になくても)商法で保護されている。
しかし、米国では多くの出版社が「包括的な言葉」でNCCを拡張運用可能な武器に変えてきた。AGによれば、これを使うことで、著者が次に出す本の内容や時期を規制し、著述活動で生計を立てることすら困難にする、といったものらしい。これは例えばの話ではなく、何十年も前から問題になってきたで、今ごろ言い出すAGは偽善的だという声があるほどだ。大手出版社は(立場の弱い作家から見ると)奸知に長けた弁護士を擁し、彼らの発明が「業界標準」として通用してきたのだが、近年著者の窮乏化が進んだことで、AGも改善に重い腰を上げたにすぎない、というわけだ。
それはともかく、NCCが問題なのは、著者にだけ一方的に要求されていることだ。出版社は既刊本の著者に憚ることなく、どんな本を出そうが自由(少なくとも出版契約では禁じていない)という片務性は、まるで雇用契約のようだ。一般的にはわずかな金額しか意味しない出版契約に盛り込むのはおかしいと多くの人が思うだろう。それに、同じテーマで反復的に書くことは、当たり前のことで、ノン・フィクションや教科書では、むしろ改訂が必須なことが多い。だから、出版社がNCCを攻撃的に使うと、著者が他社から改訂本を出版することを禁止することにもつながる。それが「不正な協業」になるかどうかは、個別に・法廷で決着すべきことで、契約書で包括的に禁止されるべきではない、と思われる。
NCCが出版社の武器である時代は終わった
米国の出版社は著作者と第三者との間の契約が以前の出版物の価値を毀損する場合の抑止としてNCCを使う。同じテーマで別の出版社から刊行するような場合の問題だが、日本では相手出版社が当事者となるのに対し、米国ではあくまで著者であり、それは契約があるからだ。
NCCが「わざわざ」盛り込まれているのは、もちろん昔は「版」が非常に貴重で、版を保有する者の権利を保護する必要が認められたためだ。copyrightは複製権であって「著作」権ではない。日本でも上梓・開板(新しく版木を彫って印刷する)していた江戸時代以来、「板元」は保護されており、NCC的なルールもあったが、それは業者間のことだった。時代は変わり、「版」はますます軽くなり、デジタルになって重さを失ったが、複製権は拡張され「著作」を支配するまでになった。出版社の弁護士たちは、先輩たちが練り上げてきた「NCC文学」を継承してきた。NCCの拡大解釈が許されれば、著者は出版社に支配される。
しかし、時代は根本的に変わった。もはや出版において「版元」の全能は保証されていない。著者たちは「版」を保有することで独立するようになったからだ。NCCを嫌って自主出版やアマゾンを選ぶ著者が出てきても不思議ではない。出版社は著者との新しい関係をつくっていく必要があると思われる。出版社は著者の権利を擁護し、協力して市場/読者の利益となることを重視すべきだ。「版を絞り、寿命を長く」というのは時代遅れで、むしろ版(バリエーション)を多くして、テーマ(読者)へのエンゲージメントを強く、持続的なものにすべきだ。
皮肉なことに、AGがNCCをアンフェアであるとして断罪するようになった時代は、すでにNCCの威力が薄れた時代といえる。◆ (鎌田、09/03/2015)