事件など起きそうもない世界でも、波乱はあるものだ。FBFでは今年の招待講演にサルマン・ルシュディ氏を呼んだが、これに抗議したイランが一斉に撤退を発表、「イラン地区」からは政府も出展社も消えた。アジア館ではマンガ日本を「抗日70年」の中国が圧倒する形勢。しかし、この地区は出版関係者の関心を集めていない。
「表現の自由」の代価を払うFBF
FBFは前日に基調講演や公式記者会見を開催するのだが、今年はこれが「事件」となった。英国の爵位を持つサー・サルマン・ルシュディの招聘に対し、イランの出展者グループが抗議し、ボイコットしたのである。ルシュディはイランで死刑を宣告されている。当然、講演は厳重な警戒体制の下で行われることになり、もっぱらジャーナリストを集めた会場には緊張が走った。事前登録者に限定されていたので、筆者はこの数奇な人生を送った作家の講演を聴く機会を持てなかった。彼は当然のことながら「表現の自由」の普遍的価値について語ったが、彼の招聘はFBFおよびドイツ政府の決断によるものと思われる。日本では考えられないことだ。
普遍的価値は、時に膨大なコストとリスクを懸けて守ることで試される。つまりそこにはギリギリの計算がある。FBFがその判断をしたのは「表現の自由」が世界的にテロ/反テロ戦争の脅威の下にあり、FBFが出版界に対してメッセージを発する必要があるという考えが背景にあったものと思われる。ボース総裁からも日頃の柔和な表情が消えていたように感じられた。FBFの今年のプレミア・イベントがどんな結果をもたらすのかは誰にもわからない。開催初日のイラン会場はほとんどの展示内容が撤去され、「表現の自由」は他人の信仰を侮辱することを許すものであってはならないという主張が掲げられていた。
これで出鼻をくじかれることもなく、フェアは開幕した。警備は表面上例年通り。さすがに慣れたもので緊張をまったく感じさせない。何事もなかったかのようで、主催者も来場者もその辺はよくわきまえている。「文事ある者は必ず武備あり」という故事を思い出した。最初は戸惑ったが、昨年に予告され、今年から一新された会場レイアウトは、地域別に分かれた会場を、機能的に配置したもので、参加者の動線を短縮し、疲労を軽減してくれる。参加者はすべて出版関係者で、分刻みでミーティングを重ねているので、これは助かる。なお、FBFは最初の3日間がビジネス・デーで、週末が一般向けのフェスティバルとなっている。
出版文化の「厚み」を示さない日本
ところで、アジア諸国を集めた4号館地階の初日だが、どうしても日本の貧弱さが目立つ。出展者もスペースも縮小しているせいだろうが、中韓をはじめ、巧拙はともかく、文化戦略の中でのブックフェアの重要性を政府がしっかりと認識している印象なのに対して、かつて「文化大国」として評価の高かった日本が、マンガばかりでは困る。やはり現在の日本の文化全体の魅力をプロデュースするコンセプトがあり、人を惹きつける方法と仕掛けがなければ、人は来ない。マンガに依存してはマンガも沈んでしまうし、すでにその傾向は見えている。
政府が主導する中国では、「抗日戦争勝利70周年」記念出版事業に関する発表・展示が進められていた。地方別の戦史や史料などが体系的に展示されており、かなりの部分を日本軍関係の資料が占める。もちろん「南京事件」関係も。英訳・独訳も多いのにも驚いた。日本では昨年、逆の立場のキャンペーンが行われたが、ここが国際的な舞台である限り、日本の歴史修正派の不戦敗となろう。共産党によって編集・制作が進めらた「抗日戦史」の英訳本の披露が、英独の研究者を招待して行われていた。昔の「文革スタイル」で。
独自の存在感を示すアマゾン
今年はあまり大物作家の巨額契約がないかわりに、これまでFBFでは目立っていなかったアマゾンが、かなり注目される発表を行った。米国最大の翻訳ブランドである Amazon Crossingが、今後5年間に毎年200万ドルを翻訳に投入すると発表したのだ。開拓に成功した非英語圏作品の英語版出版を大規模に進めるということだが、1点に1万ドルをかけたとして、200点を出版できる勘定になる。これはかなりの影響を英語圏市場にもたらすだろう。これまで「地域」に限定されてきた版権も、言語圏ごとに取引されるものが多くなるかもしれない。
米英では、ミステリなどの舞台や設定が偏り、マンネリ化したことが、読者に飽きられはじめていると言われている。「異国」の知らない文化のもとで生まれた作品は、読者の好奇心と想像力を刺激する、というのは日本では周知の事実だが、これまで英語圏では「翻訳は成功しない」と見られてきた。突破口を開いたのはアマゾンであり、今後も市場をリードするだろう。米英の有名作家に頼ってきた大手出版社が、世界戦略を見直す可能性は高い。英国アマゾンは、出版社向けのオンデマンド印刷(PoD)についての発表も行う予定だ。◆ (鎌田、10/15/2015)