Scribdは12月9日、定額制サービスに新たに2,600点以上の楽譜(ハル・レナード出版)を加えたほか、STM出版大手のエルセヴィア社から様々な専門分野の2万点のタイトル、セサミ・ストリートのブランド・シリーズ10種を加えることを発表した。いずれも月額$8.99の範囲で提供される。プロ向け専門書籍のユーザーを地道に加えていく垂直的アプローチは効果的だ。[全文=♥会員]
Scribd:地道に深掘りして大きな資源に
マーケティングでは、市場を縦方向に深掘りして手法をvertical、横断的に展開するのをhorizontalと呼ぶ。前者は客単価重視、後者は顧客数重視と言い換えてもよい。深掘りすれば根がしっかりするので、対象の選び方とアプローチが適切であれば客単価は相対的に大きくなり、売上当たりのコストは低下して経営は安定する。ドキュメント・シェアリングのプラットフォームとして出発したScribdは、もともと多くの専門家、技術者をユーザーに持っており、こうしたコンテンツを定額サービスに加えるのは自然だ。
仕事のために書籍を必要とする人々は重要な出版市場だが、一般書に比べて部数が少なく、話題にもならないので、書店を中心として販売される一般書とは別扱いされている。単価が高いので企業で購入するケースも多い。しかし、デジタルを前提とした場合、対象・用途を限定し、専門性の高い書籍ほど定額制に向いている。これは本誌がつとに強調してきたことだが、簡単に言って、文芸書などと比べてコンテクストの集積度がはるかに高く、ネット時代には読者と本が提供する知識の関係が多様な付加価値を生むということだ。
まず、非一般書とその読者は以下のような性格を持つ。
- 教養・娯楽用途以外の書籍は、実用書、旅行ガイド、学習・参考書から専門書、学術書まで広い範囲を含み、大部分は採算点以下の出版物だが、ローエンドは一般書と重なる。
- 様々なレベルの技術者、教育・研究者、その予備軍である学生まで含めて、1分野で数万人から数十万人に達する。必要な知識・技術レベルに達し、維持するには毎年一定以上の投資を必要とする。
- 専門性の低いものはノン・フィクションの一般書と対象読者と重なり、市場は閉じているわけではない。また一人の読者は通常複数の「専門」に関係し、それらを通じて別の読者と関係する。
- プロフェッショナル・コミュニティへのアクセスは、従来の手段ではコスト/効果が合わないために軽視されてきたが、上述した特徴のためWebマーケティングには適している。
- 少部数ではあっても、専門書は知識のピラミッドの頂点にあり、知のネットワークのノードでもある。一般書のレベルを決定し、教育・出版文化において重要な位置を占める。
そして重要なことは、こうした出版(とくに印刷版)が商業的に継続困難になっていることだ。これは最近本誌でも取り上げた。大手出版社はデジタルに対応しているが、個々の専門に強い中小出版社が淘汰されつつある。専門書・実用書・B2B出版は大きな再編が不可避になる。これは出版社が流通機能を持つということである可能性が強い。つまり、出版の再編は流通の再編を伴うだろう。日本では店舗以外のチャネルとして紀伊國屋や丸善などの外商営業が多くをカバーしてきたが、多くを個人に依存する営業スタイルでは潜在ニーズを十分に生かせるものではない。顧客が必要とするコスト効果の高いサービスを提案できないと、これも淘汰の対象となるだろう。
この出版分野の再編において、定額制モデルは販売と同等(あるいはそれ以上)の重要性を持つだろう。それは読者のコンテクストとの接点がより密に保たれるからだ。マーケティングにおける価値は絶大で、出版物が個人の消費行動だけではなく、企業の活動と直接間接に結びついているならば、媒体としての価値が大きくなる。広告モデルを拡張することも可能だ。Scribdが扱うことになったハル・レナードの楽譜は、音楽だけでなく、楽器市場とも結びついている。
定額制ビジネスモデルは、基本的にユーザーとコンテンツ消費の関係(ジャンル、パターン、支出額)に着目し、持続性と利益を両立できる均衡を見つけ出す、根気強い作業で、データ・マーケティングの最も難解な応用問題なのだが、領域を限定することでビッグデータに依存せず、人間の知識と知恵を生かした深掘りが可能になり、販売は定額と、定額は広告と結びつき、ニッチにおけるプラットフォームとして情報とサービスのサプライチェーンを形成することが可能になる。そしてニッチの間の関連を生かせば、ニッチを統合して水平型企業に対抗することも考えられる。現代の合従・連衡である。
売上/利益は、大きく顧客数/客単価の関係で決まる。ニッチは誰もが目ざすものだろう。しかし、アマゾンというブロック・バスターがいて、高精度のデータ・マーケティングを展開しているから、たんに顧客数ではなく、顧客数/客単価を最大化する巨大な能力を発揮し、休むことを知らない(というか休まないようになっている)。垂直派がつねにニッチを築けるとは限らないのだ。専門コンテンツを定額制で提供することは、アマゾンのマーケティングとの長いたたかいの入口だ。◆ (鎌田、12/15/2015)