Kindle以後ノート(19):自由と制約

fix時に「固定レイアウト」という言葉に強い違和感を覚えることがある。そもそも文字とレイアウトとの堅固な関係を発見し、実体化するのが「出版」ではないかという、活字時代の旧い教義を思いだすからだ。出版においてレイアウトを相対化するには、別の「大義」とルール、スキルが必要になる。それが意識されないと、仕事は安定しない。

「固定しない」文字で得るもの、失うもの

文字情報を商品にする出版という捉えどころのない仕事の中で、情報をページに定着させる工程は、ほぼ唯一確実なものと思える。筆者はワープロのない写植全盛時代に、様々な活字印刷物を様々な立場で企画・編集・制作する仕事に関係したので、アイデアからページが生まれ、商品として完成する体験をした。数次の校正を経て情報が「実体」を得る工程は、自分の目と指先を使った「ものづくり」を錯覚させるもので、0.1ミリの空間にも敏感になることができる。

本づくりが文字を固定させる仕事と考えてきた人々にとって「固定レイアウト」などという言葉は、レイアウトを否定するナンセンスでしかないのはよくわかる。印刷を前提とする限りは。仕事とは(多くの場合)自由からではなく、制約から生まれるものだ。人は制約に悩まされながら、その中での創造性を追求し、そこに意味を発見する。いつしか制約は、ゲームのルールのように、自分の能力を発揮するためになくてはならないものと錯覚するまでになる。それがプロフェッショナルだ。

しかし、制約はいつしかなくなる。それをなくすことで別の価値を追求するためだ。筆者の場合、1980年代にコンピュータ組版とワープロ、それにオンライン・データベースに触れたとたんに、情報そのものへ関心が移ってしまった。情報はコミュニケーションにおいて意識される。つまり「絶対に」相対的なものだ。考えてみれば、出版物の編集も、様々な明示的、非明示的なパラメータで表される「読者」という抽象的存在を想定して行われる。編集者はレイアウトの固定の中に創造性を見出してきたとすれば、「読者」と「コンテクスト」「モード」といった別の共有空間を定義し、そこでレイアウト表現の創造性を発揮していくことになるだろう。ターゲットは読者であり、それは「対話」を通じてのみ明確になる。「対話」は苦痛にも喜びにもなる。 (鎌田、09/20/2018)

 

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