橋口和本論を読む:(2)「本屋」から出版へ

ものごとの初めと終わりは、その本質を知るうえで重要だ。「和本」の世界は、著者と読者と本を様々な形でつなぐ「本」屋で成立っていた。社会の言語活動の要としての「本」が必要とする専門性と一貫性、持続性は、本屋の開放性によって保障された。『江戸の本屋』はそのことを教えてくれる。活字は130年あまり前に和本を駆逐したが、それもやがて終焉を迎える。

活字「出版」の全盛とその終焉

ヨーロッパの活字出版史では、装飾写本を模したインキュナブラという初期活字印刷本の存在が近世出版をつなぐものとして注目され、骨董的価値からも重視されてきた。ヨーロッパの「経師」の仕事だ。しかし、最近では本の行商人(pedlars)がキー・プレイヤーとして注目されている。行商人のネットワークと人気タイトルについては比較的古くから記録が残っており、読書家の日記や古文書とそれらを対照することで、時代ごとの「出版」「古書流通」を含めた「読書空間」が描き出される。歴史の裏側を覗くこともできる、何とも興奮を誘う研究だ。それによってロバート・ダーントンの『革命前夜の地下出版』や『猫の大虐殺』などの歴史書の傑作が書かれた。

それらから知ることが出来るのは、やはり中世以来の行商人としての「本屋」の役割だ。近世活字出版(ビジネス)も書店/行商人とともに生まれた。本も出版も読者とともに「成立」した。それは機械印刷によって「産業化」され、あるいは活字出版とともに新しい「複製産業」が生まれた。「版権」の価値はますます拡大し、それがドライブする産業モデルである。18世紀の後半に生まれた「出版ビジネス」は伝統的な「本屋」ビジネスを上書きしたことになる。印刷機械が輸送の進化に先行したためだろう。出版は機械によって「儲かる産業」に変わり、都市化と教育で生まれた新しい読者が持続的拡大を支えた。

「本・出版・読者」関係の再構築の可能性

江戸の出版が「本屋」で支えられたとすれば、明治以降の近代出版は、印刷会社に近い出版社によって推進された。両方を兼ねた博文館 (1887-1947)は、出版、印刷、取次、広告、用紙などの事業を兼ねた、いわば産業革命時代の「メガ本屋」だが、出版は非対称の時代に入り、「本屋」は消費者よりも新刊スケジュールに対応することに汲々とするようになった。消費者(読者)に近い本屋の伝統は古本屋で残った。日本の書店が欧米とは違うものとなったのは、仕入と販売(価格)でら交渉力を持たなかったためと考えられる。筆者は、新本業界と古本コミュニティの二重構造は、図書館の軽視とともに、読書空間の健全な発展を歪めてきたと考えている。

伝統的でオープンな古本の市場に対して、「近代的」で量的拡大とともに窮屈さを増す新本市場。これはとくに大量生産・大量販売(一部当たりコストの低下と絶版、廃棄、不採算リスクの増大、製品サイクルの短縮…。これらは活字出版の「宿命」とか「必要悪」とか言われていた。人々はそれが永久に続くと思ったのも無理はない。改善の努力もあったが、出版ビジネスの多元性、分散性は関係者による改革や外部からの介入を困難にしてきた。この閉鎖的システムは「紙・活字・本」という三重のロックが掛けてあり、それらが同時に開錠されない限り、誰も操作できなかった。物理的世界では、紙と活字に代わる媒体は存在しないはずだった。Webは本にとっては可能性だが、逆にそれを吸収することで、多様な体験としての本を収束させる可能性もある。活字印刷がそうであったように。

出版のパラドクスと「本屋」の復興

とはいえデジタルが唯一の可能性であるとはいえ、そして出版の様々な要素がデジタル化されたとはいえ、例の「循環参照のパラドクス」は解けそうもなかった。出版は、DTPやガジェットのような技術を集めて出来るものではないからである。

21世紀の初め、筆者が考えていたのは、(1)衰退とWebメディアへの吸収、(2) 紙の制約からの解放と出版のルネッサンス、の2つの可能性である。出版という循環参照システムのパズルが長期にわたって解けない可能性、あるいは人々が関心を失う可能性は大きいとも考えていた。なにしろ儲かりそうもない産業であり、デジタル時代に通用する、出版に固有な価値が発見されなければ、現代のビジネスの主要な対象とは思われていなかったからだ。しかし、結果としてパラドクスは解け、紙、活字に続く第3のパラダイムは到来した。筆者は、アマゾンの出版/ビジネスモデルが、パラドクスを解いたと考えている。そしてそれは特定の機能が全体をリードするものではなく、日本にかつて存在した「本屋」の復興である。 (鎌田、12/26/2018)

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