「Webメディア」ノート(1): 雑誌ビッグバン

筆者はかつて様々なジャンル/タイプの雑誌の仕事をしたことがある。1960-90年は「雑誌の黄金時代」。毎月のように買い求める読者がいて、莫大な広告費が流れ込む雑誌もあった。Webが最も大きなダメージを与えたのは「雑誌」だが、この先どんなビジネスモデルに収斂するかがまだ見えない。

Webとの付合いの始まり

Web30年は、多くのことをあらためて考え直すタイミングとなったと思われる。こういう声もある。

「ビッグテクノロジーとの長いハネムーンは終わった。しかしそれは問題の一部としてではなく、解決の一部として役立てなければならない。」(ジョヴァンニ・ブッタレッリ、欧州理事会・データ保護総監)

これはまさに問題の核心を言い当てている。甘い気分はもうすっ飛んだが、生まれた問題の解決には付き合わなければならない、ということだ。これは人生の現実だ。いいかげんオトナにならなければ、問題は膨らみ、未来は育たない。

搬送手段(紙、放送…)とコンテナ(書籍、雑誌、番組…)、オーディエンス(不特定多数)に強く規定されて成立していたビジネスモデルは、基本的にWebによってすべてリセットされた。「がらがら‐ぽん」があまりに唐突だったために、日本のように「高密度社会空間」(なわばり)が成立している国では、メディア関係者ほど不用意に動けないという心理が働くので、ビジネスモデルの話はオープンに議論されない。しかし、文字と画像における紙の万能性は知られ、米国はもちろん、中国やインドではメディアやビジネスでの普及は著しい。

紙に依存したコンテンツは、コンテナ・ビジネスの自然縮小で、Web上への流出が始まり、デジタル・コンテンツの自然発生、企業コンテンツなどとともに漂流し、無数のブログがノードとなって検索で手繰り寄せたコンテンツを再発信することで、流れが出来てきた。ドロドロしたものが冷えて固まりつつあるのだろう。

メディアは人間からしか生まれない

これらのノードを糾合して社会的な「メディア」としようという動きはもちろんあるが、求心力が持てないのだ。単純に言えば、かつての「黄金時代」にはいた「編集長」がいないのだ。雑誌に必要なのは何よりも「編集長」であると思う。「何が情報か」「何がおもしろいか」というコンテクストの要を決められるのは人間以外ではないだろう。それは「テーマ」「切り口/角度」の斬新さであり、筆者が見るところ、そうした人間は独立性が強く(非協調的で)組織には馴染みにくい(外部に人脈をつくれる)。高度成長(拡張)期の日本はそうした人材が多かったと思う。そういう人間(当然失敗もある)が雑誌の魅力である。

バブル以降の日本はサラリーマン化して「とがった」特集企画も減り、多くの雑誌が「横並び」化し、ますます面白くなくなった。そして最悪の時期に(ほとんど天罰のように)、Webは「やってきた」のだ。Webはすべてのデジタル素材をそのまま「投稿/共有」可能な状態に置く。それによって起きた結果がメディアの現状だ。

Webはつねに「問題/解決の一部」である。それは人間/社会と一体だからだ。紙や放送のように遠くから来るものではなく、その場にあるものだ。高いところから叫ぶ「編集長」はいてもいいが、それより彼らは一人の「著者/と読者」として、リードすべきなのだ。  (鎌田、03/22/2019)

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