ダグラス・ラシュコフの著述活動が佳境を迎え、新著『チーム・ヒューマン』の邦訳も発刊されるという。まさに時代・状況が、この理論家に舞台/場面を与えたというほかない。筆者もこれでメディア論における多くの疑問が同時に解けることに期待しないわけにはいかない。ここでは、もっぱら自分のために読み、考えてみたい。
DRの読み方
ダグラス・ラシュコフ(DR)は、メディア理論家である。米国のこの世界で「理論家」という呼称は軽くない。マーシャル・マクルーハンやノーム・チョムスキー、アラン・ケイなどと並ぶ、時代を超えた想像力が、最も優れた頭脳の持ち主たちから期待されるからだ。
だから日本で連想させるような、そこいらの「理屈」っぽい「評論」家とはまるで違う。筆者がこれまで「敬して遠ざかって」きたのは、明晰かつ深いDRの議論を幼稚な理解で済ませている自分を怖れるためである。すでに『ネット社会を生きる10ヵ条』の翻訳はなされているが、オリジナルで定式化されていることの重複を避けるために、ここでは「我流」で読むことをお許しいただきたいと思う。
DRのような人物は、身近で教わるか、フランス語のような明晰かつ厳密な言語でストレートに訳されるのによく、意訳が多くなる日本語への翻訳では混乱して、人と共有することが困難になるのである。DRのような理論家の英語が難しいのは、それがプログラムのように厳密に書かれており、実装・実行可能なことを忘れてしまいやすいからだ。「理論」家は常人の数倍の知識と注意力を前提にして語るので、プログラムを直感で「解釈」する生身の人間には向かない。
DRはなぜ冒頭から「プログラムするか/プログラムされるか」ということを繰返しているのか。それがプログラムで成立っている「ネット社会」に生きることの意味であるからだ。
DRはこれを10ヵ条にわたって述べているのだが、プログラマーでもなければ、動詞としてのプログラムに注意することはないだろうし、自然言語で生活しているわれわれにとって言葉の厳密性を問題にしないはずだ。しかしDRは「自由の言葉」などではなく、「不自由さ」を語っている。「奴隷か、主人か」という、最も誤解の少ない、嫌な言葉で。これは「警告」である。あるいは、言葉の自由が信じられた20世紀的への死刑宣告かも知れない。
ネットが社会 (言葉)の意味 (存在)を変えた
なぜそうなったか。言葉がプログラムと結びつき、コンピュータと結びつき、世界中のネットワークと結びつき、そしてメディアと結びついたからだ。voice (態)のある動詞と対象 (object)、この結びつきは歴史を変えた。これまで、言葉と人間の間には、つねに人間(あるいは言葉を介した自分とは別の人間)がいた。ネット社会では「プログラム」が至るところに存在し、しかも人間を必要としない。これは怖ろしい時代だ。考えれば考えるほど…。誰が決めたわけでもなく「世の中は変わった」のだ。たとえば、言葉が「一人歩き」を始めて「不倫は文化」の社会を支配している。アメリカでは人種はおろか、マスクが社会を分断している。
DRの「10ヵ条」を改めて「読む」ことにしたのは、これらが人間と社会の生死にかかわることだと思ったからだ。英語の 'voice' のすぐ眠くなる話ではなく、恐ろしい疫病、あるいはこの世を生きるためのワクチン・特効薬・免疫に関わる話と考えてよいと思う。→つづく ◆ (鎌田、07/08/2019)