OECDの学習到達度調査 (PISA)の影響で、読解力が問題にされるようになっている。OECDは国際的なビジネス環境推進機関であり、これは伝統的に一国の内側に閉じられた調査ではなく、世界で共通する「ビジネス・生活」に近い文章が使われる。だから実質的には、普段の日本語を取り巻く環境、つまり日本の文献や出版の価値が「危機」にあるとしても過言ではないかもしれない。とりあえず、言語としての価値について考えてみよう。[全文=♥会員 *2/5まで一般公開]
「読解力」をめぐって:弱いのは日本語か日本人か
このところ、日本人の「読解力」についての議論が活発になってきた。これは伝統的な国語教育が(英語教育も、あるいは多くの教育が)国際的に通用するものではなかったということであろう。良いニュースは、これから「教育の国際化」が始まるということ、悪いニュースは、これまでの教科書は役にたたなくなり、新しい教科書と出版が行われるだろうということだ。これは日本語と日本の出版にとって回生の機会となるかもしれないし、日本語の少数言語化につながるかもしれない。
この世紀は、15-16世紀、19-20世紀以来に続く変化の時代となっている。文字と音声による出版言語を中心とした科学技術言語、教育言語、商業言語、生活・文化言語の言語圏は、それぞれの成長・発展を続けてきたが、20世紀末のITの普及と言語的発展の頂点で「人工知能革命」と「翻訳革命」が起こり、以後の展開は予測し難い。言語そのものの変化も同様である。我々は今、19世紀(明治時代)の日本で起きたような言語的変化(言文一致、木版から活字出版への移行)を予期しているが、その範囲で収まるものとは思われない。いま、「堅い」と思われてきた日本語という言語圏が、経済的・社会的な脆さを露呈し始めている。
堅い国家体制の中国も「技術的な」柔軟さを発揮しており、19-20世紀のイデオロギー的限界を超えて、産業文明の限界を前進させている。意外なことに20世紀に限界に達していたのは米国だった。ともかく、テクノロジーという観点で「出版/文明」の発展を見ていきたい。もはや国境の内側の出版は20世紀で終わり、21世紀は欧米出版圏と中国出版圏を中心に展開していく。
日本語の国際化における戦略性
これまで、日本語という環境は、批判の余地が限りなく少ない「所与」として受け容れられてきた。すでに明治以来の日本語というものがあり、それを前提としたものがある以上、これを英語や中国語(2つの文明言語)に置換えることは現実的ではなく、せいぜい改善していくしかなかったからだ。しかし、2つの文明言語というのは非現実的でもなく、AI環境と多国間翻訳が手に届くなら、明日の出版は過去の延長ではなく、将来の先取りかも知れないと筆者は考えている。
いま、国際的なビジネス環境推進機関であるOECDから、日本の「読解力」における欠陥を示す情報が広がりつつある。これは日本語の「普及力」と置換えてもよく、この調査が示す弱さが限界であるとすれば、1980年から限界を露呈してきた日本の技術的、文化的、社会的限界はかなり深刻で、出版圏を維持できる限界にも来ているだろう。それは次のような理由による。
・日本語(表現)は「外の世界」で通用せず、市場はますます縮小している可能性が強い。
・英中言語圏はコミュニケーション環境として拡大しており、そのフレームワークを利用して小日本語圏を構築することは現実的である。
・外部の言語圏との交流は、Web時代の新しい言語環境での成長のコアとすることが出来る。
・言語圏の維持・発展のためには文字と音声・画像の複合的活動が不可欠であり、「文字」だけでは現実の動きに対応できない、
・言語圏の動きは、同心円型でなく、スパイラルであり、局所的で速いが動きほど、周辺に及ぼす影響は大きくなる。言語集団がテクノロジー、産業、カルチャーなどで個性的であることは周辺に影響をもたらす。
・言語活動を均等に維持することは困難であり、むしろ戦略的に拡大するほうが容易である。
言語集団運動については、古代から近代にかけての移動や、現存する諸民族の言語復興についての研究が知られている。しかしOECDの研究に関して言うなら、むしろ「エリート集団」であるべき「学生」が言語的に不活発である特異現象についてであり、日本人集団をとりまく問題として研究、分析、対処するほうが適当であると思われる。これについては次回以降で続けたい。◆ (鎌田、01/21/2021)
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