サイバネティックスは自然言語に大きな影響を与えると考えられてきたが、それどころか人間自身の言語能力や労働を変えつつある。OECD (経済協力開発機構)の学習到達度調査 (PISA)は、教育と学習を通じて人間の能力と言語活動を変えている。言語文化は社会活動における「緩衝機能」の役割を果たしてきたが、最近では直接的刺激を与える。しかも本人にも分からない不気味さがある。
自然言語と「人工言語」
自然言語としての英語の成功は圧倒的だが、汎用性のために冗長性、理解困難を悪化させている。巨大な国語は市場を拡大したが、管理不能を悪化させている面も否定できない。OECDなどの商業機関としては、そうした問題を調停可能とする、言語の改善が求められている。「サバイバル・イングシッシュ」のようにメディアや環境を横断する方法が求められるのは当然だろう。PISAは、エスペラントのような人工言語としての面と、モバイル機器を併用した伝達、表記法などの面とが融合しており、10年以上前から開発、使用されてきた。
自然言語の学習/補助ツールに使うことができ、いかなる言語とも相互運用が可能であるが、伝統的な読解力より、標準的な表現力を重視する。つまり、PISAが「国の文化や伝統などに左右されない必要な基本的な学力」と謳っている通り、それらに依存せずに、可能な限り簡便な「英語的」要約・表記を促進する。結果として「文部省的読解力」に熟達した学生ほど低評価になるのは当然で、PISA的英語使用への特化を促す。
「読解力」は、通常、人間が文字や音声を使って情報や意思を有効にコミュニケーションすることにある。それには音楽や絵、身振りなどがあり、多少とも標準化された表記法や表現法があり、それぞれの専門家の間では国際的に知られている。言語にはエスペラント(Esperanto)という人工語があり、その分野では(国際補助語として)最も高く評価されているものの(第二言語話者数100-200万人)、巷間で見聞きすることはない。PISAのアプローチは、独自の教育イニシアティブによる人材育成、つまり「情報読解力」をもとにした「社会的言語実践力」と「リーダーシップ」である。
OECD (経済協力開発機構)の学力調査は「国の文化や伝統などに左右されない必要な基本的な学力」と謳っている通り、各国の教育行政がローカルに進めてきた「国の文化や伝統」に沿った教育ではなく、国連・OECD・アメリカ合衆国が、「国際」エリートを育成する教育推進のためのものだろう。そしてどこにも「第2人工語」を謳っていないところをみると、文部省の国語教育と(意識的に)無関係であることは想像できる。
明治以来のOECD改革は日本語を変えるか
合衆国教育省のTrends in International Mathematics and Science Study (TIMSS) は、自然科学系の教科開発ではIDE (International Data Explorer)、ローカルな情報蓄積では、International Database Analyzer (IDA)、Distance Learning Dataset Training (DLDT)などがある。つまり、OECDの加盟国としては、2000年以来、日本はPISAを推進しているが、成績は英語教育と同様、芳しいものではない。OECDと合衆国教育省には協力すべき立場にあるが、国家の教育方針は整合性はないのだ。
PISAの理念は米国行政の下にある。それは個人の「国家に依らない基本的な学力」を支援するもので、TIMSSを中心とし、初等教育以上がそろったグローバルなもので、日本語とその翻訳以外はSTEMが採用されるだろう。国語教育だけが取り残される意味はあるだろうか。命を守ってでも読解力を護る人々は文部省にはいるだろうか。
最近、国語教育の関係者に熱気が感じられないのは、どうやらPISAのせいではないかと考えている。筆者はPISAの理念や方法論には基本的に賛成だ。しかし、人工言語という異質なものが、この明治以来「混沌」を積み残したままの日本語が、「国際語としての英語」と人工語が、「日本語」を豊かにするは思えない。◆ (鎌田、02/01/2021)