前回述べた、脱グーテンベルク(G)研究会の方向性をもう少し敷衍してみたい。和本エコシステムを生成・発展・消滅というライフサイクルで見たことで、エコシステムを成り立たせているもの、時には消滅にも導くものに目を向けることになった。これは紙の大量生産と紙製品としての書物の消費の上に成立してきたG的エコシステムの行方をどう予測し、どう対応すべきかを考えるのに役立つ。(鎌田博樹) ... [続きを読む]
和本
和本論からE-Book(3):書物とコミュニケーション
和本論から始まった脱グーテンベルク研究会の第3回(2月1日)は、近藤泰弘教授(青山学院・日本語学)を迎え、古典を翻刻・再現する場合に問題となる日本語/表記の問題を考える機会を得た。コミュニケーションの空間を規定する言語は「生きもの」であり、社会的に多様であると同時に歴史的に変遷している。そしてそのあり方は言葉の容器としての書物の形態に依存する。言語と書物そして読書行為にまで踏み込むには、さらに大きめのテーマ設定が必要になってきた。そこでことしの秋までは続きそうな新しいフレームワークについてお話してみたい。 (鎌田博樹) ... [続きを読む]
和本論からE-Bookへ (2):共感装置としての書物を蘇らせる
これまで世界の古典籍の電子化は、画像データ化を意味していた。これは必要なステップだが、それで書物が当時実現してきた読書体験が、今日の人々に共有されるわけではない。それらを活字に翻刻し、注釈を入れ、あるいは現代語訳したものが、やはり別の一面を伝えるものでしかないように。では全体性にアプローチする方法はないものだろうか。紙に拘らなければ、可能ではないか、というのが脱Gの出発点。(左の絵は岩佐又兵衛『小栗判官絵巻』) ... [続きを読む]
和本論からE-Bookへ (1):書物としての絵巻
和本が拓いてきた世界 2 ─ 書入・注釈/橋口 侯之介
和本が拓いてきた世界 1 ─脱Gから創造的技術への提案/橋口 侯之介
「書物における明治二十年問題」3/橋口 侯之介
活字に「中毒」してもそう害はないが、活字を「信仰」するのは本好きとは言えない。本は活字以前にも存在したし、活字と共存し、日本では長い間、活字出版を圧倒する存在だったのである。活字を信仰するのは自由だが、それを他人に押し付け、多様性を許さず、デジタル技術が拓いている可能性に背を向けるとしたら問題だ。橋口氏が提示する非活字出版の豊かな世界は、21世紀の出版が進化すべき方向を示唆しているように思える。(編集子解題) ... [続きを読む]
続「書物における明治二十年問題/橋口 侯之介
和本はその複合的な価値と維持性の故に、なお伝存している。他方、大量生産で江戸の本屋業を壊滅させた近代の活字出版業も黄昏を迎えた。活字の制約から離れた「出版」業をゼロから再構築するという仕事が現在の出版人に課せられている。活字の電子化に何か意味があるように考える人がなお少なくないが、近代によって失われた江戸出版の豊かさ(多様で奥の深い書物観)こそ、インターネットを前提とした次世代の出版が復活すべき価値であろう。(編集子解題) ... [続きを読む]
「明治二十年問題」をめぐって/鎌田2:活字再考
日本の出版文化は江戸と明治の間で断絶している。日本語も文学も変わった。著者と読者の関係も。それは「文明開化」のせいだと聞かされていたのだが、小林さんの前回の話を読んで、どうやらそれは「活字」や「文字組み」と関係がありそうだという気がしてきた。和本と活版本の文字の最大の違いは、平仮名の続け字である「連綿体」である。どうしてこれは活字化されなかったか。それによって何が起きたか。(鎌田) ... [続きを読む]
「和本明治二十年問題」を巡って/小林
落語の口演をもとにした口述本は、明治初期の人気コンテンツというだけでなく、「言文一致」の母体ともなった。口述本に親しんだ読者大衆が市場としていなければ、翻訳だけから新しい文字言語が生まれるはずはない。「明治二十年」は、まさに活字作家の鼻祖たる坪内逍遥、二葉亭 四迷らによって近代文学の礎が築かれた時期と重なる。とすると…。小生の真っ向勝負を受けた小林さんの漫談は、さすがに重要な点を衝いている。(編集子解題) ... [続きを読む]