これまで世界の古典籍の電子化は、画像データ化を意味していた。これは必要なステップだが、それで書物が当時実現してきた読書体験が、今日の人々に共有されるわけではない。それらを活字に翻刻し、注釈を入れ、あるいは現代語訳したものが、やはり別の一面を伝えるものでしかないように。では全体性にアプローチする方法はないものだろうか。紙に拘らなければ、可能ではないか、というのが脱Gの出発点。(左の絵は岩佐又兵衛『小栗判官絵巻』) ... [続きを読む]
橋口侯之介
和本論からE-Bookへ (1):書物としての絵巻
和本が拓いてきた世界 2 ─ 書入・注釈/橋口 侯之介
和本が拓いてきた世界 1 ─脱Gから創造的技術への提案/橋口 侯之介
「書物における明治二十年問題」3/橋口 侯之介
活字に「中毒」してもそう害はないが、活字を「信仰」するのは本好きとは言えない。本は活字以前にも存在したし、活字と共存し、日本では長い間、活字出版を圧倒する存在だったのである。活字を信仰するのは自由だが、それを他人に押し付け、多様性を許さず、デジタル技術が拓いている可能性に背を向けるとしたら問題だ。橋口氏が提示する非活字出版の豊かな世界は、21世紀の出版が進化すべき方向を示唆しているように思える。(編集子解題) ... [続きを読む]
続「書物における明治二十年問題/橋口 侯之介
和本はその複合的な価値と維持性の故に、なお伝存している。他方、大量生産で江戸の本屋業を壊滅させた近代の活字出版業も黄昏を迎えた。活字の制約から離れた「出版」業をゼロから再構築するという仕事が現在の出版人に課せられている。活字の電子化に何か意味があるように考える人がなお少なくないが、近代によって失われた江戸出版の豊かさ(多様で奥の深い書物観)こそ、インターネットを前提とした次世代の出版が復活すべき価値であろう。(編集子解題) ... [続きを読む]
「明治二十年問題」をめぐって/鎌田2:活字再考
日本の出版文化は江戸と明治の間で断絶している。日本語も文学も変わった。著者と読者の関係も。それは「文明開化」のせいだと聞かされていたのだが、小林さんの前回の話を読んで、どうやらそれは「活字」や「文字組み」と関係がありそうだという気がしてきた。和本と活版本の文字の最大の違いは、平仮名の続け字である「連綿体」である。どうしてこれは活字化されなかったか。それによって何が起きたか。(鎌田) ... [続きを読む]
「和本明治二十年問題」を巡って/小林
落語の口演をもとにした口述本は、明治初期の人気コンテンツというだけでなく、「言文一致」の母体ともなった。口述本に親しんだ読者大衆が市場としていなければ、翻訳だけから新しい文字言語が生まれるはずはない。「明治二十年」は、まさに活字作家の鼻祖たる坪内逍遥、二葉亭 四迷らによって近代文学の礎が築かれた時期と重なる。とすると…。小生の真っ向勝負を受けた小林さんの漫談は、さすがに重要な点を衝いている。(編集子解題) ... [続きを読む]
「書物における明治二十年問題」をめぐって/鎌田
「書物における明治二十年問題」は、私たちが「紙かデジタルか」などという不毛な近視眼的見方を抜け出し、書物の歴史をふまえた創造的な議論に進んでいく重要な手がかりを与えている。本フォーラムでは、これを出発点として前進すべく、橋口侯之介さんと小林龍生さんと鎌田による「鼎談」を企画した。これがさらに分岐を生み、リンクを広げて新しい「書物」の実験にもなることを期待している。まずは鎌田が受け止めたことをまとめておく。(鎌田) ... [続きを読む]
書物における明治二十年問題/橋口侯之介
この貴重な論考は、ポスト・グーテンベルクを考える新しい企画の出発点として、著者の橋口侯之介氏に転載を快諾いただいた。千年の歴史を持ち、近世に繁栄を極めた和本のエコシステムはこの年を境に壊滅に向かい、金属活字印刷による近代出版業に道を譲った。その「近代」の象徴さえもデジタルによって相対化されようとしている現在、ひとつの文明の終わりを画した「明治二十年」の意味は、いまこそ振り返るべきだろう。そこで何が起き、何が失われたのか、ポスト・グーテンベルク問題との接点は何か? まずは予断をもたずにご一読いただきたい。(編集子解題) ... [続きを読む]